知っていたことを知ったことを知った者たちの物語

    「この世界の片隅に」 ―‘りんどうの秘密’はいかに解き放たれたか  

 

 

 日常の脱線的なエピソードやオチまで含んだ一見他愛ないショートストーリーが重ねられつつ、その一方で周到にプロットが着々と積み上げられる。「この世界の片隅に」の物語は、すずと周作とリンそれに水原が有機的に絡み合いながら織りなされていく。それぞれが関連のないばらばらのエピソードの寄せ集めではない。
 例えば、水原という男の役回りは、すずの単なる幼馴染ではない。一見関係しないように見えても、実は遊女リンの存在があって初めて重要な意味を持ってくる。

 

 物語の主要な通奏底音として響くのはリンの存在だ。
 周作はリンを身請けしようとしてかなわなかったという経緯があり、この事実を知って、すずは自分が元々求められて嫁入りしたわけではなく、次善の選択肢であった‘代用品’である(― 本来自分はここにいるべき人間ではないのではないか)という痛み(損なわれた自己肯定観)を抱えることになる(子どもができない、小姑の存在、さらに終盤では右手を失い家事が満足にできない、ということがそれに輪をかける)。
 周作がかつて嫁に迎えたうえでリンに贈ろうとした‘りんどうの茶碗’は、その痛みをすずに突きつける象徴となる。

 

 艦隊勤務の休暇に訪ねてきた水原とすずが納屋で二人きりになるシーン(第22回)。すずを抱き寄せる水原に、彼女は「うちはずっとこういう日を待ちよった気がする…」と呟く。
 このコマの直前に、ふと目に入ったかのようにして箪笥の上の‘りんどうの茶碗’のコマが挿入される。‘代用品’の痛みがあらためてすずの胸を刺す。そのうえで吐かれるのが、わざわざ自分に会いに“来てくれた”水原に対する「うちはずっとこういう日を待ちよった気がする…」なのだ。
 水原は、すずにとって‘代用品’としてではなく自分を訪ねて来てくれた者である。「…こういう日を待ちよった気が…」の台詞につづいて「でもこうして あんたが来てくれて」とすずは呟き、またすずが水原の手帳に鷺の羽で描いた絵に添えて“…死なずに来て呉れて嬉しかった”という言葉が添えられる。
 水原はすずが負った心の傷を癒す者なのだ。

 

 (艦隊勤務という非日常にいる水原にとっては、すずはなにより日常を体現する安らぎの対象である。だから食事の支度をし、風呂の準備をするすずを見ては嬉しそうに笑う。納屋でのすずを抱き寄せた際も、あっさり「あーあー 普通じゃのう」と身を離す。すずの日常性・普通さを犯したくなかったのだ。逆にすずにとっては、だからこそ自分の普通さをそのままに肯定してくれる水原がかけがえのない存在になる。)  

 

 


 すずの損なわれた自己肯定観を癒す者としての水原の役割は、第25回にも表現される。
 すずは‘りんどうの茶碗’を本来の持ち主であるべきリンに渡すよう、同僚のテルに託す。その帰り道すずは「水原さん あんたは笑うてくれたが うちは未だに苦いよ」と呟き、 冗談を言いながら笑う水島のコマが挿入される。

 7月24日の呉港海空戦の際(第36回)のすずの錯乱の原因も、水原の存在抜きには理解できない。
 呉湾内には水原が乗務する‘青葉’が停泊している。水原に死なれることは、自らの存在意義の根拠を見失うことだ。幻のさぎが現れる。さぎは水原がみやげにくれた羽に表徴されるように水原につながる回路だ。さぎを追ってさぎに呼びかける。「そっちへ ずっと逃げ! 山を 山を越えたら広島じゃ」 広島こそ自分たちの原点、自分の存在を疑う必要もない場所だ。危険もわきまえず敵機の前に無防備にすずは立ちすくむ。

 ここで周作が飛び出してすずを守ろうとする。広島へ帰ると言いつのるすずに、周作は説得を試みるが、すずの錯乱は収まらない。実はこの時点で周作は、すずが心の内で何を引きずっているのか既に分っているのだ。
 (遡る7月1~2日の呉大空襲の際(第34回)、駆けつけてきた周作に、すずは朦朧とした意識のまま「二葉館の白木リンさんを見て来てくれんじゃろか? お友達なん お願いします」と頼む。ここで初めて周作は、すずとリンとに交流があることを知り驚愕する。その後、周作が二葉館を見に行っていることはあとになって分かる。)
 なおも「いっこも聞こえん 帰る 帰る!」と喚くすずの心のうちをリンの面影がよぎる(リンの横顔のコマ)。周作は「……そういや白木リンの消息を知りたがっとったのう 絶対教えたらん もう呉に居らんのなら関係なかろう!」と叫ぶ。周作はまだこの時点ですべてを開示する決断がついていない。
 空襲にあった二葉館で周作が何を見たかが、すずに(そして読者にも)明らかになるのは、その3か月後である。

 

 10月(第41回“りんどうの秘密”)、反乱制圧の軍務に赴く周作は、別れ際にすずに二葉館を見に行けと言う。占領軍からの危害を心配しながらも、戸惑うすずに「早う!」といつにない強い口調で言い、駆けだしたすずの後姿を見守る。
 そこですずは、無惨に破壊された二葉館を見る。そしてリンも死んでしまったことを知り、‘りんどうの茶碗’の欠片が転がっているのを見る。
 周作が事前にこの有様を見知ったうえで、すずをここに来させた、ということは極めて重要である。

 すなわち、ここで‘りんどうの茶碗’の欠片を見た周作は、
・これをリンに贈ったのがすずであること、
・すずがリンに‘りんどうの茶碗’を贈ったということは、これが本来は周作がリンのために用意したものだということをすずが知っていたということ、
・すなわちすずがリンの代わりの嫁として求められたという事実を知っていたこと、
・そしてすずがリンの‘代用品’であるという思いに捕らわれ続けてきたこと
   をここで初めて知ったのである。
・そして一方、すずは、それらのことをここで周作が知ったことを、知ったのである。
・そして周作がそれを知ったということを、あえてすずに知らしめるために、周作がすずをここに来させたことも ―。
・また、周作はすずがこれらのことを知るはずであることを、承知のうえですずをここに来させたのである。

 

 さらに、ここではじめて、すずはリンが言ったあの謎めいた言葉「人が死んだら記憶も消えて無うなる 秘密は無かったことになる」「それはそれでゼイタクな事かも知れんよ 自分専用のお茶碗と同じくらいにね」 の意味を理解する。
・リンは、すずが周作とリンとの関係を知ってしまっていることを知らなかった。
・すずは、リンがすずの夫があの自分を身請けしようとした‘北條周作’であることを知ったことを知らなかった。
 誰もが悪意ある策を弄したり、姑息な駆け引きをしたわけでもないのに、微妙なジグザグのすれ違いがあった。
 すずはここで改めて知る。リンが、誰も巻き添えにせずに一人きりの(甘美で切ない)記憶にとどめたまま死後まで持っていくつもりだった‘りんどうの秘密’が、自分が‘りんどうの茶碗’をリンに贈ったがために解き放たれたことを。秘密は3人の共有するものとなった。
 「ごめんなさい リンさんの事 秘密じゃなくしてしもうた……………」
 でも、私はあなたを忘れないよ。あなたのことは私の記憶の中にずっと留めていくつもりだから…。
 「これはこれでゼイタクな気がするよ…」
 
 これらの機微を理解しなければ、さらに3か月後の広島での周作との再会の意味はわからない。 
 

 

 翌年1月、生きていた妹のすみを祖母の草津の家に訪ねたすずは、広島の市街地に向かう(第44回“人待ちの街”)。
 実家も戦災孤児兄弟が住みついているのを見(原点としての居場所を喪失したことになる)、すずは疲れはててしゃがみこむ。
 そのすずの背後に、いつの間にか周作が立つ。
 少しの沈黙ののちに周作が呼びかける。「……すずさん」 振り向いて唖然とするるすず。(軍務についていた周作の帰還がいつになるかは分っておらず、またすずが広島にいることを周作も知らなかったはず。つまり、周作は一旦自宅の呉に帰還してから旅装も解かずにその足ですずを迎えに広島に向かったのである。)
 周作「待ったか? 心配かけたのう」。すず「………ええ 待ちました」。
 一見あたりまえにも思えるこの会話は、いささか不思議だ。広島に周作が現れるとは予想もしていなかったはずのすずが、なぜしばしの沈黙「………」ののちに「ええ待ちました」と答えるのか。
 すなわちここは、相手が何を知ったかを知った者どうしとしての初めての会話なのである。
 周作の「待ったか?」には事の次第のすべてを知った者としてのメッセージが込められており、すずはそのメッセージを受けとめ、そして理解する。それゆえにわざわざ迎えに来てくれた周作に対して、「ええ 待ちました」と確信をもって答えるのだ。もはや「…待ちよった気がする」ではなく。

 

 その後、相生橋に佇んで、すずは周作に言う。
  「周作さん ありがとう この世界の片隅に うちを見つけてくれて ありがとう」
 この曲折を踏まえてこそ、この言葉は味わい深いものになるはずだ。

 

 

 

 ところで、「この世界の片隅に」がアニメにもなって評判をとったことは周知のとおりである。
 ここでは、上述したような原作の物語の機微が描かれただろうか。
 当初版では、上映時間と製作費の関係からリンにまつわる部分をほとんど省いてしまっているので、ドラマの主眼はまったく別物である。
 そのことが心残りだったか、あらためてリンにまつわる部分を加えた「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」が制作された。では、このアニメではどうか。
 だが原作をほぼ忠実になぞっているようにみえて、肝心の部分は描かれなかった。
 すずの傷を癒す者としての水原は、リンとの関連がまったく示唆されない。ために単なるすずの‘初恋の人’以上の何者でもない。(主役を演じたのんは「うちはずっとこういう日を…」の台詞に悩んだというが、片淵監督はこれを“旦那がいる自分に迫ってきた水原に怒っている”という頓珍漢なアドバイスをしたそうだ。〈「ユリイカ」'16.11月号 p112〉 ここに違和感を抱いたのんの感性をさすがというべきか。)

 

 さらに決定的なのは、周作が爆破された二葉館を見たうえですずに同じその有様を見に行かせた、ということが明示されない。そのため、周作がなぜわざわざすずを二葉館にやったのか、まるで意味不明になってしまった。したがって真に心が通じ合った者どうしとしての広島での再会も、ただ久しぶりに会っただけのようにしごくあっさりと描かれてしまう。(周作はすずにすたすたと駆け寄るや「すずさん」と呼びかけ、すずは「あ、ようご無事で」と応じる。)
 
 だが、これらのことは片淵は十分承知のうえだったはずだ。

 

 こうの史代の原作は、読み進めながらもしやと思い、後戻りしてああなるほどと納得するような伏線や仕掛けががふんだんに埋め込まれている。それは些細なエピソードから物語の本筋にまで及ぶ。たびたび中断して元の箇所を読み返すのはこの作品の大きな楽しみでもある。だが、こんなことはアニメではDVDでも困難だ。(これは片淵も何度か言及している。〈「こうの-片淵対談集」p440等〉)まして劇場上映ではさらに不可能である。仔細に見れば、物語を錯綜させるような要素は慎重に排除されていることが分る。

 

 しかし、時間軸を一方向に進んでいく映像作品の制約、という消極的な理由ばかりでアニメ作品がこのようになったと見るべきではあるまい。片淵は最初のアニメ版でリンにまつわる部分を抜いたことについて次のように語っている。

 

   最初のプリミックスのときに、はじめて音つきで全篇通して観たんですね。そうしたら(中略)戦闘機や爆撃機が飛んで来たときの怖さといったらなかったんですよ。(中略)このままだと戦争で痛めつけられたすずさんはこの映画のなかではもう回復できないんじゃないかとすごく心配になったんですね。(中略)だからリンさんの話を入れることで、前半の日常生活の部分でまですずさんが痛めつけられてしまったら、本当に立ち直られなかったかもしれないなと思うんです。〈「ユリイカ」'16.11月号 p94〉

 

 漫画と違って映像では音も出るし色もつく。実際の戦闘機の爆音を録音したという音響効果は凄まじいものだ。
 片淵は、リンのエピソードを復活させるにしても、それをすずの心の傷を深掘りすることに関連付けるのは避けて、あえて曖昧なままにしておこうと考えたようだ。
 メディアとしての特長も制約も異なる漫画とアニメが別の表現になることは当然だし、アニメが原作を忠実になぞらなくてはならないという筋合いもない。
 それゆえに「この世界の(さらにいくつもの)片隅に」は、すず・周作・リン・水原たちが、有機的に絡み合って織りなすドラマではなく、彼ら(径子やテルたちも含めて)のまさに“いくつもの”エピソードが並列的に提示される物語になった。それはそれで、映像作品としては上々の出来栄えではないか。
 (アニメの制作にあたって、片淵とこうのは原作の解釈について全く話し合わなかったという〈「こうの-片淵対談集」p342〉。こうのとしては、“戦争に関するところ”さえきちんと描いてくれれば、あとは自由にやってくれてかまわないという考えだったろう。当初版を見た際の感想として“いい感じで私の手を離れた〈同前p388〉”と称えている。)

 

 ちなみに、こうの史代は原作について次のように述べている。

 

 この漫画に関しては、テーマが「戦争もの」なんです。私としては「戦争」が主人公だと思っているくらいで、すずや周作なんかは脇役ですね。〈「こうの-片淵対談集」p350〉

 

 また、こうも記している。

 

 だらだら続く戦災を描こうと思った(中略)登場人物が「死ぬかどうか」ではなく「どう生きているか」に重点を置いた。 〈「平凡倶楽部」p12〉
 …そこにだって幾つも転がっていた筈の「誰か」の「生」の悲しみやきらめきを知ろうとしました。〈「この世界の片隅に」下巻 あとがき〉

 

 戦争を描くだけならドキュメントで足りる。世界の片隅での、彼らが紡ぐドラマの愛おしさ・切実さがあってこそ、戦争の不条理がまざまざと浮かび上がる。
 「この世界の片隅に」はまさにそのような作品である。

 

['20.10/23]