自句自註毒 歌仙首尾「うたゝ寝の巻」 

 

 過日、唐突に連句をやろう、という気を起こしてしまった。それもひとりで。若い頃、友人といくつかの歌仙を巻いた(かつ自費出版した!)ことはあったが、それ以来だ。

 オーソドックスな歌仙は36句からなるが、連衆もいない思い立っての独吟ゆえ、とりあえずはもっと手軽な12句の首尾でいくことにする。首尾というのは歌仙の頭と尻尾、すなわち中抜きで‘初折の表’と‘名残折の裏’だけの6+6句である。

 融通のきかないコンパクトなサイズだし、うろ覚えをいいことに、こまごまとしたルール(式目)は、自分に都合よく解釈したり無視することにする。そんなことで‘首尾’は上々というわけにはいかなかったが、それでも独りよがりながらそれなりに楽しんだのだから、まあよしとしようか。

 披露するほどのものではさらさらないが、後日になって、なんで俺はこんな句を付けたのか、理解に苦しむことは目に見えているから、その備忘のため以下を記しておく。

 

 

歌仙首尾 うたゝ寝の巻

 (表)

 うたゝ寝の夢に散りしく春の雪    

  つひの棲家にもの芽ぶく頃     

 逃げ水に性懲りなくもときめきて   春(恋)

  酔ふて約する月面旅行       秋(月・恋)

 あやにくに高きに登る靴破れ     

  しみじみ愛でるいちじくの花    

(裏)

 ふり返りふとしたゝめる寒見舞    

  やつのあだ名は桃色ゴリラ

 空耳か春雷の距離はかりかね     

  ぐづの我が身に桜蕊ふる      春(花)

 蛤の吐く幻の野をゆけば       

  思ひめぐらすくさぐさのこと

  

うたゝ寝の夢に散りしく春の雪    

 発句。連句の発句が独立して“古池や―”などの俳句になったわけだが、かといって発句は“古池や―”のようなぴしゃりと決まった名句ではいけない。連句は後につなげるものだから、完結した世界を構築したような句では次の脇が付けられなくなるのだ。(二の句が継げない。)現代の俳人の句などは発句にならない、と丸谷才一は大岡信との対談で言っている(例えば山口誓子の“夏の河赤き鐡鎖のはし浸る”)。芭蕉も発句では“五月雨を集めて涼し最上川”としたが、‘奥の細道’には一句立で“五月雨を集めて速し最上川”と改案している。なるほど。

 で、ここで言及するのも面映ゆくなってくるが、この句はどうか。なんとなく緩さがあって、まあ、どうにかなるんじゃないか。うたた寝の夢なら情景が漠然としているからか。

 “散りしく”は岡野弘彦の“散りきて墓をおほへる桜の花なきたましひも出でてあそべよ”から。出てくるのはたましいかそれともバケモノか。

 

うたゝ寝の夢に散りしく春の雪       

 つひの棲家にもの芽ぶく頃     

 脇。のんびりうたた寝しながら日々をおくっているような人物だから、ここを終の棲家と定めて暮らしているのだろう。そんな家にも積もった春の雪の下には木の芽などが芽吹き始めている。ここでは芽吹くものにあえて具体的な植物の名はもってきていない。‘もの’とすることで、ちょっと怪しげなもの(ものの怪?)のニュアンスも匂わせただろうか。

 

 つひの棲家にもの芽ぶく頃         

逃げ水に性懲りなくもときめきて   春(恋)

 第三は発句-脇句で作られた世界をがらっと転換させなければいけない。‘もの芽吹く’に食いついて、のんびりと余生を過ごしているような人物から、いい年をして(?)いまだに女癖の悪い男に転じた。‘逃げ水’というのはまあ女性の方も迷惑しているわけですね。早くも俗に靡いたきらいもあるけれど、ここでこのくらいの句を出しておかないと、第五句が月の定座だから、流れがすましたものに傾いてしまいそう。36句の歌仙なら焦ることもないが、この辺が短い首尾の窮屈なところだ。また恋も初表には出すなといわれている。季語は‘逃げ水’で春。

 

逃げ水に性懲りなくもときめきて     春(恋)

 酔ふて約する月面旅行       秋(月・恋)

 第四はがらっと転じた第三にさりげなく寄り添ういわゆる‘遣句’であることがよく、あまり趣向を凝らしたものである必要はないとか。だが、それは歌仙でのはなし、首尾でそんな呑気なことはいっていられない。そのうちにすぐ終わっちゃうのだ。しかも第五の月の定座をひとつ前に持ってきた。(第四での月は稀だが「冬の日」の「炭売の巻」などの例もある。)恋は2句(以上)続けるのが一応の決まり。女癖の悪い男が酔いどれてバーのカウンターかなにかで女を口説いている。オレが金を稼いだらよ、おめえを月面旅行に連れて行ってやるぜえ…。この句の‘本歌’は、朝日歌壇で活躍する松田姉妹の姉 梨子さんのうた ― “酔っぱらい電話をかけてくる人と宇宙旅行の約束をする”です。

 

 酔ふて約する月面旅行         秋(月・恋)

あやにくに高きに登る靴破れ     秋

 突拍子もない話を相手にすまいと、苦し紛れの冗談で“俺の靴破れちゃってるしなあ、そんな高いところは無理さ、お生憎さま”と肩透かしを食わせる。靴が破れるくらいだから、まあ男のつもりなのだが、これを女の句ととると恋のニュアンスが生じてきて、打越の“逃げ水”に響いてしまう。ここではもっとはっきり前々句-前句から離れた情景を描くべきだったか。季語はなんと“高きに登る”。

 

あやにくに高きに登る靴破れ         秋

 しみじみ愛でるいちじくの花     

 あれこれ言い訳して出不精な人物がいちじくの花なんぞを愛でる。いちじくの花? ‘無花果’というくらいだから、じつはいちじくに花はない。いや、なくはない。実を割った中の赤い粒々が花なのだ。これを愛でるとはかなりの変人か? いちじくの実は熟すると割れる。前句の破れた靴からの 連想でもあるんですけど…。 

 しみじみ愛でるいちじくの花          

ふり返りふとしたゝめる寒見舞     

 首尾とはいえ一巻のなかで季が春と秋だけなのはおもしろくないので冬の句を。そういえばあの変人(あるいは研究者?)のあいつはどうしているだろう。ふと思い出して寒中見舞いなど出してみる。年賀状では以前からつづいている交渉があることになってしまう。

 

ふり返りふとしたゝめる寒見舞       

 やつのあだ名は桃色ゴリラ

 第三までと月、花の定座だけでも9句。季節の句だらけというのも鬱陶しい。ここで雑の句を入れて息抜きを。なるべくくだけた他愛のないのがいいだろう。カタカナなんぞも入れてみる。というわけで“桃色ゴリラ”。

 

やつのあだ名は桃色ゴリラ

 空耳か春雷の距離はかりかね       

 次が花の定座だから、ここで季を春にして花を出しやすくする。で、ゴリラの連想から“春雷”。ゴリラの唸り声のようにも聞こえたけれど春雷かも…。逃げるべきか、はた、走るべきか。

 

空耳か春雷の距離はかりかね         

 ぐづの我が身に桜蕊ふる        春(花)

 決断できないまま愚図愚図しているうちに花見のタイミングを逃してしまい、訪れた時には花びらはおろか既に蕊が降る時季になってしまっていた。“桜蕊ふる”というのが季語。ルール(式目)的には花の定座は‘桜’ではだめで‘花’という語でないと本当はいかんらしい。なので“花の蕊”ならよいのだろうけど無視。(芭蕉七部集・猿蓑「灰汁桶の巻」にも去来の花の座“糸桜腹いつぱひに咲にけり”があります。「去来抄」で言い訳してますけどね。)

 

 ぐづの我が身に桜蕊ふる          春(花)

蛤の吐く幻の野をゆけば         

 桜も見損ねて呆然としてとぼとぼ歩く。蛤が季語だけれど、蛤が吐くのは蜃気楼。つまり“幻の野”というわけ。

 

蛤の吐く幻の野をゆけば          

 思ひめぐらすくさぐさのこと

 挙句。これはあっさりと後腐れのないように。趣向を凝らしすぎては気持ちよく締めくくることができない。(発句と照応するように、などと説いている書もあるようだが、それでは“一歩もあとに帰る心なし(「三冊子」)”という連句の精神に著しく背くことになる。)

 

 

 まあまあじゃないかと悦に入っていたけれど、見返すほどにこれはいかんなと思えてきてしまう。

 あからさまに打越に掛る(前々句を引きずる)堂々巡りは避けられているとは思うものの、冴えない中-老年の男の身辺を離れきれずうろうろするばかりでダイナミックな展開がない。‘客人を立てる’とか連衆の誰だかに‘花を持たせる’などの心遣いがともなわない独吟の弊か。

 

 多重人格者になったつもりでやり直し。

 発句だけはあえて前の首尾と同じものを使う。同じ轍をふまないようにせねば…。

 

 

 

…… 

…というわけで、できたものがこれ。

 

歌仙首尾 うたゝ寝またもの巻

(表)

 うたゝ寝の夢に散りしく春の雪          

  呑みあかしたるお遍路の宿           

 悪太郎涅槃西風(ねはんにし)にや吹かるらん     

  どこでも同じペーパームーン          秋(月)

 床の間の古径の萩の色褪せて           

  たれにしやうか秋の敦盛            

(裏)

 廃校の同窓会の染め小紋              (恋)

  母の箪笥にひょいと恋文             (恋)

 その男もやし独活ともあざけられ         

  春泥の地にいくさはじまる           

 どら声で意地にも唄ふさくら冷え         春(花)

  面(おも)を上ぐれば宵の明星

 

うたゝ寝の夢に散りしく春の雪          

 前の首尾がぱっとしなかったのは、この発句にも原因があるのではないか。

 ‘夢’は閉じられた個人的なもの。つまり他人が入り込む余地がなさそうだ。前首尾ではそれがずっと後まで尾を引いていたような気がする。先の丸谷才一との対談で大岡信は“丈高く幽玄であることが、発句の大事な条件…同時に…言外の余情として他の人へ呼びかける、そういう気持ちが含まれてること”が必要と述べている。なるほど。しかし、もうこの座はスタートしてしまったぞ。さてどうするか。

 

うたゝ寝の夢に散りしく春の雪            

 呑みあかしたるお遍路の宿            

 夢のなかで君が見たという春の雪、それはむかし同行したお遍路の宿でのこと、時ならぬ雪が降ってどうせもう明日はあまり先には進めまいと高を括ってつい呑み明かしてしまったねえ…。うん、なんとか発句に寄り添えたんじゃないですかね。このような脇なら発句も、君とお遍路したあのときの夢をみたよ、というこころと読めて救われる。初折にはまだ神祇釈教は出すなというルール(式目)もあるようだが、それは歌仙でのはなし。無視してしまおう。それからお遍路で酒は呑んでいいのかって? ― 酒を出す宿もあるし「おへんろ絵巻」と名付けられた四国4県の銘酒シリーズもあるんですってさ。

 

 呑みあかしたるお遍路の宿             

悪太郎涅槃西風(ねはんにし)にや吹かるらん     

 ともにやんちゃだったあの悪友、今はどこでどうしているのか、さしずめ涅槃西風にでも吹かれて彷徨っているだろうか。狂言にも‘悪太郎’というやはり大酒呑みの演目がある。第三が“…て”“…らん”止めとされるのは現在進行形で話を展開することが求められているからでしょうね。

 

悪太郎涅槃西風にや吹かるらん            

 どこでも同じペーパームーン           秋(月)

 風に吹かれて外国にでも辿りついたか、空には昼間のぼんやりとした月(ペーパームーン)が浮かんでいる。なんだどこでもおんなじだなあ…。ここは“いづこも”とするより“どこでも”といったほうが軽くてよさそう。ところで‘ペーパームーン’が秋の定座でいいのか。さあ、宗祇さんは目を剥くでしょうなあ。

 どこでも同じペーパームーン            秋(月)

床の間の古径の萩の色褪せて             

 ‘ペーパームーン’には昼のぼんやりした月というほかに、文字どおり紙で作った月、転じて“まやかし”、“はかないもの”の含意が。床の間の小林古径画だという萩の掛け軸、色も褪せてさてあれはホンモノか。

 

床の間の古径の萩の色褪せて               

 たれにしやうか秋の敦盛              

 床の間のある座敷で鳩首協議されているのは、村の地芝居で敦盛役を誰にしようかという難題。敦盛は一ノ谷の合戦で熊谷直実に討たれた16-7歳の美少年。年寄だらけの村で誰が演じるというのか。

 

 たれにしやうか秋の敦盛                

廃校の同窓会の染め小紋                (恋)

 子供も減って今は廃校になってしまった学校の同窓会。見違えるようにあかぬけた染め小紋の同級生にふと恋心がよみがえる。はじめ“夏衣”としていてそのほうが恋の句としてはしっくりしたと思うのだが、秋が3句つづいた直後に季節が逆行するのはやはり引っ掛かる。冬ならということで“ミンクコート”などとも考えたが、恋の句にはいまいちで違う方向に行ってしまいそう。では無季にと“夜会巻き”、― これも濃すぎるようだ。品があるけど肩肘張っていない装いでいこう。ということで“染め小紋”に落ち着く。

 

廃校の同窓会の染め小紋                  (恋)

 母の箪笥にひょいと恋文               (恋)

 着物持ちだった母。その母が遺した箪笥を整理していたら、なんとラブレターが!

 

 母の箪笥にひょいと恋文                 (恋)

その男もやし独活ともあざけられ          

 そのラブレターを送った男、どんな色男かと思ったらこれがまるで冴えない男。折れやすいウドの大木どころかひょろひょろのウド。母はこんな男からのラブレターを後生大事にしまっていたのか。“もやし独活”が季語。食用に柔らかく栽培されたもの。

 

その男もやし独活ともあざけられ              

 春泥の地にいくさはじまる              春

 戦力にもなりそうにないやわな男。そんな一人ひとりの事情など顧慮することなく戦ははじまる。‘向付け’ということになるかな。

 

 春泥の地にいくさはじまる                

どら声で意地にも唄ふさくら冷え            春(花)

 戦地から帰還した男。積もる思いは多々あれど、今はそれを振り切るように歌ってしまおう、花冷えの桜の木の下で。歌うのは‘同期の桜’か。“花の冷え”ではなくあえての“さくら冷え”。これもおきて破り。

 

どら声で意地にも唄ふさくら冷え             春(花)

 面(おも)を上ぐれば宵の明星

 さらりと着地したい挙句。当初“面を上ぐれば風も光らん”としていたのだが、打越に“風邪”が…。かつ第三には“涅槃西風”も。“吹かるらん”の“らん”とは文法的には違うのだが、音が重なるのはどうしても気になる。荒んだ気分からは抜け出したいから、“面を上ぐれば”は残したい。そこで下7を“夕焼けの空”とか“虹が重なる”としたが、これが夏の季語。春3句(それも最後は‘冷え’)から急に夏になるのはちと唐突だ。というわけで無季の“宵の明星”に。やけくそ、瘦せ我慢の花見が果てるころ、日も暮れて空には宵の明星。めでたしめでたし。

 

 ま、今度の方が少しは連句らしくなったんじゃないでしょうか。春秋以外の季は入れられなかったし、連句のルール(式目)から逸脱しているところも多々ありそうだが開き直ってしまおう。首尾だしね。

 前句aと次の句bとで提示された世界が、またその次の句cの、aを袖にしたbとの新たな共犯関係によって転換・跳躍・逸脱する。ほう、そうきたか、と唖然とするような思ってもみなかった方向に裏切られる。このようにして性懲りもなく最後(挙句の果て)まで繰り返されるのが連句の醍醐味である。― といったら極端なはなしになるだろうか。

 歌仙なら36句のすべてがそんな調子では息苦しくなってしまいそうだ。なので随所に‘遣句’のような息抜きを配することも必要になる。いわば歌仙はその途中でペース配分やら駆け引きやらが必要な中長距離レースだ。対して首尾は一気に駆け抜けていかねばならない短距離走だろう。ペース配分などしていたらそのまま失速してしまう。春秋も2句つながりまで、など首尾独自のルールがあってもよさそうだ。

 でも連句の絶対的なルールは“後戻りするな”ということだけ。その余は一応の目安という程度でよいのではないかと思う。形骸化したいちいちを気にしていては生きた感性のトレーニングにはならない。障害物をいかにすり抜けるかを楽しむゲームとしてならルールに縛られてみるのもいいだろうが。

 

 さて、つぎは久々に歌仙にでも挑戦してみる、かな…??!

 

〈25.5/25 記〉