小町MEMO

 

出自・出生                        
  小野篁の一族の誰かが小町の父であることはほぼ確か 

     篁(802~853):漢学者・公卿  わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと人には告げよ海人の釣舟

                 ⇒ 孫?:道風

  〈片桐洋一説〉出生:820~830?                      
        活躍(20~40歳):838(承和5)~855(斉衡2)と重なる?   仁明朝833~850
         安倍清行・小野貞樹・文屋康秀・僧正遍昭との接点から推測
      * 文屋康秀との贈答歌=873(貞観15)年頃(大塚英子) ☚ 不明との説も(目崎徳衛)

  〈目崎徳衛説〉出生:810~824?

…小町とかなり長く関係があったと思われる小野貞樹や、小町に懸想して軽くあしらわれた安倍清行などを、常識的に小町に近い年齢の人と見做し、官歴によって彼等の出生を大まかに推測する…。

 

 

 身分
  ⦿ 842(承和9)年 小野吉子 正六位上を授かる

         ⇒ 吉子 或は その妹が小野小町で、仁明天皇の「更衣」。

            仁明崩御後フリーに          : 〈片桐洋一〉
       * 更衣:令外の官。天皇の衣替えの用を勤め、寝所(しんじょ)にも侍る。

                    皇后-中宮-女御-更衣 ex.桐壺更衣=光源氏の母
  ⦿ 吉子の妹が小町。

    京、畿内の士族から「氏女-うじめ-」として貢上され、仁明朝の後宮に仕えた。
              * 氏女:後宮十二司(女子だけの役所(女司)に配属、下級女官「女孺-にょうじゅ」に。定員252名
                 この他に、舞姫・女楽演奏者を養成する「内教坊」の「女孺」50名も。
      独身に限られ結婚で身分を失う。
      天皇・皇太子の寵を受け叙位(=吉子)か、実務経験を積んで職事しきじ(役付)にも。
        小町は内教坊の妓女-ぎじょ-などの無位の「女孺」・舞姫候補として仁明朝後宮にいた?
         867(貞観9)年 小野後賢子-のちのよしこ?-が従五位下に叙位。 ☞ 晩年の小町か?
         876(貞観18)年   〃   尚書(女司の書司の長官)に。仏典・漢籍・紙筆・楽器を扱う
                                                                                           : 〈大塚英子〉

 

美人?          
     古今和歌集 仮名序(紀貫之866・872~945?)ちかき世に、その名きこへたる人は、すなはち…

をののこまちは、いにしへのそとほりひめの流なり。あはれなるやうにて、つよからず。いはば、よきをうなの、なやめるところあるににたり。つよからぬは、をうなのうたなればなるべし。
(左注)そとほりひめの、わがせこがくべきよゐなりささがにのくものふるまひかねてしるしも


   真名序(紀淑望)  小野小町之。古衣通姫之流也。然艶而無気力。如病婦之着花粉。
                 ☛ 歌についての記述であり、人物・容姿についてではない

* そとほりひめ:允恭天皇の妃。日本書紀允恭天皇七年に、名は弟姫といい、容姿絶妙で、その艶色が衣をとおしてかがやくので、時の人が「衣通姫」といったとある。(かほすぐれてならびなし、そのうるはしき色、衣よりとほりててれり)

 和歌三神の一柱にも。 住吉明神・玉津明神・柿本人麻呂 or  衣通姫・柿本人麻呂・山部赤人

 

 

うた
   ・確かなものは、古今和歌集の18首のみ。 ☛ 真作でないものも含まれるという説も。
   ・うち13首が「恋歌の部」に入れられている。が、実質はすべて恋歌?
   ・活動時期が平仮名の成立時期(860~870年?)と重なる。
    ☛ 平仮名成立前?の詠歌(8首)には、掛詞・縁語が全く用いられていない。
      ☚ 万葉仮名(音仮名)で書かれたか?

       掛詞=平仮名の発達と平行/漢字の羅列;全体を視覚的に理解できない

                                                                                                         :〈大塚〉
 ・前期のうた  ・“夢”を扱ったものが8首中6首。
            思ひつつぬればや人の見えつらむ夢としりせばさめざらましを
         ・“夢てふもの”=夢という現象そのものを客観的・観念的に対象化し把握

                             ☚ 万葉には見られない
            うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき

                              ≠ 現実の延長
         ・“あはれてふこと”: “あはれ”万葉集ではすべて感動詞=“ああ”
                “あはれてふこと”を初めて概念化
            あはれてふことこそうたて世の中を思ひはなれぬほだしなりけれ
         ・“秋の夜”観念化
            秋の夜も名のみなりけり逢ふといへばことぞともなく明けぬるものを

                                    :〈大塚〉
 ・後期のうた  ・掛詞・(縁語)が駆使される。
     花の色はうつりにけりないたづらにわが身ふるながめせしまに
                          降る・古る・経る 長雨

                         世:男女のかたらひをするをいふ=本居宣長
        ・“花の色”=容色を意味? 

                              👉花のような容色も衰えて色あせてしまったなあ。 
                                 男にかかずらって空しく歳をとり物思いにふけっている間に…(定家・宗祇・季吟・真淵)  
         👉男にかかずらって空しく歳をとり物思いにふけっている間に
            降りしきる長雨のために桜の花も色あせて散ってしまったよ (契沖・宣長)

                                                                                                                           :〈片桐〉
       ・漢詩“花色”から?= 男の目から女の容色の美しさを喩える。(六朝閨怨詩)
           ・“世にふる”=世に経る:俗世に生き続ける ☞ 小町の決意が込められている 

                                                                                                                :〈大塚〉
      風にあふたのみこそ悲しけれわが身むなしくなりぬと思へば
         厭き   田の実・頼み
              わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ
             浮き・憂き             往なむ・否む
              人に逢はむつきのなきには思ひおきて胸走り火に心やけをり
           月・付き(手掛り) 火 起きて・熾きて
              見る目なきわが身をとしらねばやかれなで海人の足たゆくくる
       海松布      憂?
              海人のすむ里のしるべにあらなくにうらみむとのみ人のいふらむ
                      浦見・怨み                                          ・ これらの掛詞は 小町が最初と考えられる                              :〈大塚〉

 

驕慢・落魄伝説
〈驕慢?〉
 
 見る目なきわが身を浦としらねばやかれなで海人の足たゆくくる
       ☛ ‘相手の男の身’とする解釈 = 「あなた自身の身の憂さも自覚しないで…」
           ⇔ 「見る目もない荒涼たるこの私とも理解しないで…」
  花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
   ☛  ‘自らの美貌を驕った’とも受け取られた

 

  ☞  深草の少将の‘百夜(ももよ)通い’の伝説に

通小町 :百夜通いの末、思いかなわず頓死した深草少将が、死後幽霊となって小町に取り憑いていたが、懺悔のすえ小町とともに成仏する。
卒都婆小町:乞食となった小町が、僧との問答するうちに、過去を懐かしむが、深草少将の怨念から狂乱状態に。やがて醒めた小町は後生の成仏を願う。

 ☛ 「…平安時代の宮廷女流歌一般の中にこれ(男を強く拒む小町像)を置いてみれば、男の求めを一度はねつけるというのは、特に目立った特徴ではなく、きわめて一般的な発想であり、表現であることが知られるのである。一夫多妻という結婚方式の下においては、結果的に儀式的なものになろうとも、男の愛情が自分だけに絶えることなく向っているのかどうか、いちおう拒否してみせることによって、それを確かめなければならなかったのである。」
「男の真意をまず確かめようとする。これが最初のやりとりであるが、それを確かめる最も簡単な方法は、一度突き放して、もう一度求めて来るかどうかを見ることである。これが拒否の姿勢、驕慢のイメージとなる…」                       :〈片桐〉 

☛「贈答歌は…贈歌には特に条件はない。しかし返歌には大体以下のような二つの約束事があった。一つは、贈られた贈歌の中の主要語句を返歌の中に織り込むこと。二つ目は「切り返し」とか「いなし」と呼ばれる手法を駆使すること。…末摘花の一シーンで…「ついでに立ち寄っただけでしょう」というこの末摘花の返し方はなかなか痛烈である。どうして来られたのですか、などと素直に返しては、贈答歌の詠み方から外れてしまう。また「あなたに逢いたくて逢いたくて」などと詠まれて「私もですわ」では、答歌としていかにも稚拙というもの。つまり返歌は、この末摘花のように相手の言葉を小気味よく切り返して、皮肉ったりしっぺ返しを喰らわすのが常套で、その切り返しが巧みなほど、男はさすがだと思ってさらに心を燃やし、女への評価を新たにするのである。…古来、小町や伊勢、和泉式部といった恋愛の名人と言われた女性たちは、皆この手法の名手であった。              〈高野晴代:「源氏物語の和歌」〉

 

 

〈落魄?〉

  花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
  秋風にあふたのみこそ悲しけれわが身むなしくなりぬと思へば
  今はとてわが身時雨にふりぬれば言の葉さへにうつろひにけり
  見る目なきわが身を浦としらねばやかれなで海人の足たゆくくる
  色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける

文屋康秀が三河掾になりて「県見(あがたみ)にはえいでたたじや」と言ひやれりける返事(かへりごと)によめる

  わびぬれば身をうき草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ

☛ 「…戯れの応答であっても、まことにわびしく、悲しいうたである。三河掾といえば、七位か八位の卑官である。そんな康秀について行きましょうというぐらいだから小町もずいぶん零落していたと解する読者がいても当然である。これもまた小野小町落魄説話の形成に大いなる役割を果たしたであろう…。」                       :〈片桐〉                        
「恋の心を含んでのものではなく…内輪を知りあっている者同志のいたわりに対しての甘え心の、誇張をともなっているもの…。」            窪田空穂「古今和歌集評釈」

☛「男の誘いに応じた大胆な恋歌の形をとっている。しかし康秀は当時五十歳代、小町も四十代半ばになっていたと思われ、しかも二人とも高名な歌人である。つまりこれは恋歌を装った詩的な挨拶の歌だと見た方がよい。『古今集』が「雑歌」の部に入れたのも、そういう点を読み取ったからであろう。                            :〈大塚〉

 

 ☞ 通小町・卒都婆小町・関町小町・鸚鵡小町  小町草子  小野小町九相図   等々

 

 

主な出どころ

大塚英子 「小野小町(コレクション日本歌人選)」       笠間書院

目崎徳衛 「在原業平・小野小町(日本詩人選)」          筑摩書房

片桐洋一 「小野小町追跡-「小町集」による小町説話の研究」 笠間書院

佐伯梅友校注 「古今和歌集(日本古典文學大系)」         岩波書店