おごり百人一首 ― さらばをぐら百人一首

 

 

 身の程知らずにも、我流の百人一首を編む。

 藤原定家の撰とされる「小倉百人一首」のほかにも、百人一首と称するものはいくつかあって、対象年代を異にするものあれば、「小倉-」の撰をよしとせず独自の編纂をしたものもある。

 たしかに、「小倉-」のなかには、定家ともあろうものがなんでこんなうたを選んだのか、甚だ疑問に思うものがいくつもある。(“あひみてののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり”― どこがいいんだ、これ。)

 

 もちろん、作品に対する評価などというものは永久不変なものではないが、とりわけ和歌にあってはその毀誉褒貶は甚だしい。

 例えば紀貫之は在原業平を“その心あまりて、ことばたらず。しぼめる花のいろなくて、にほひのこれるがごとし(「古今和歌集序」)”と六歌仙に挙げながらけなしているし、その貫之を定家は“哥のこころ巧みに、たけおよびがたく、ことばつよく、姿おもしろきさまを好みて、余情妖艶の体を詠まず(「近代秀歌」)”とけちをつけている。また正岡子規が“貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候。…あんな意気地の無い女に今迄ばかされ居つた事かとくやしくも腹立たしく相成候云々(「再び歌よみに与ふる書」)”とさんざんに罵倒したことはよく知られたところだ。視点が変われば、当然「小倉 -」にもさまざまな批評軸というものはありえるだろう。

 定家は秀歌を撰んだのではなく、後鳥羽院の呪詛を鎮めるうたのジグソーパズルをつくったのだ、という、それだけ聞けばとんでもない織田正吉の説(「絢爛たる暗号-百人一首の謎をとく」)はどうしてなかなか説得力があるものだし、それでなくとも定家は秀歌撰とは別のなんらかの意図をもって「小倉-」を編んだのだとも思いたくなる。(例えば、御子左家に伝える実用的なマニュアルとして ―とか。)

 

 「小倉-」をもっとも激しく難じたのは、定家を称揚してやまない塚本邦雄である。塚本は“「小倉百人一首」が凡作百首であることは、最早定説になりつつあると言つてもよからう。”と断じたうえで、同一歌人の、これぞ代表作とする別のうたを撰んでみせた(一首しか伝わらない阿倍仲麻呂と陽成院は除いて。「新撰 小倉百人一首」)。

 塚本のように表だって定家を貶してはいないが、丸谷才一も独自の百人一首を編んだ(「新々百人一首」)。“王朝和歌の全史を示したいと願つた”として、室町の正徹、心敬、肖柏まで足を伸ばしているが、主だった歌人は「小倉-」と重なる。

 

 塚本邦雄、丸谷才一のような泰斗に物申すなど、とんでもないことだが、それでもやはり自分の嗜好というものはあって、必ずしも彼らの選んだうたが最上とは思えないこともある。また、天智、人麻呂あたりから始まるのなら、なぜ額田王が入らないのか、も不満である。

 だが、浅学のかなしさ、好みの百首を挙げるのにさして苦心することはなくても、百人の歌人を推すのはなかなか容易ではない。藤原の何々など、誰が誰やら見当がつかなくなってくる。

 そんな苦し紛れの事情も含めて、この‘百人一首’では古代から現代までを対象とすることにした。前半50首が古事記から江戸、後半の50首が明治から現在である。もちろん、自己満足以外のなにものでもない。

 

 

 

01

                 たた              こも

倭は 国のまほろば 畳なづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし

倭建命 (古事記)

 2c前後?       

  (夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯)

 死に瀕した倭建命が大和を讃える望郷のうた。短歌の形にまだなりきっていないけれど、そこに向かうかのような、不思議に魅力的な韻律。定型を志向する歌の姿が、国造りの歩みと重なるように思うのはただの思い込みだろうか。

 

 

 

02

うるは              かりこも

愛しとさ寝しさ寝てば刈薦の乱れば乱れさ寝しさ寝てば

きなしのかるのひつぎのみこ                .

木梨軽太子 (古事記)

5c?              

 同母妹(伊呂妹)の軽大郎女に“姧(たは)けて”詠ったうた。まあ、身も蓋もないほどの狂おしさだ。“乱れば乱れ”は“(噂で)人々が離れていく”と解する註釈もあるが、“(寝ることさえできたら)ふたりが離れ離れになるならなってもよい”と解すべきだという。また、ふたりの間柄から勘案してあるいは歌垣の歌かもしれない、とも(土橋寛「古代歌謡全注釈-古事記編」)。すなわち、その出来事に即して歌がつくられた、というより、元々あった歌が、後の出来事にちょうど見合うものとして結びつけられた、ということか。

 

 

 

03

       け

君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つにはまたじ

かるのおおいらつめ / そとおりのいらつめ   . 

  軽大郎女(衣通郎女) (古事記)

5c?                 

 上記のうたの後、伊予に流された木梨軽太子を慕って詠ったうた(“故(かれ)、後に亦、恋ひ慕ふに堪えずして追ひ往きし時に、歌ひて曰く…”)。そのうたのとおりに軽大郎女は伊予まで太子を追っていき心中する(“即ち共に自ら死にたまひき”)。 
 このうたは万葉集では磐姫皇后(いわのひめわうごう)の次のようなうたになっていて、当然ストーリーもまったく別物になる。
  君が行き()長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ     〈万85〉
 こちらもいい。どちらがいいとも言い難い。

 

 

 

04

 

三輪山をしかも隠すか雲だにもこころあらなむ隠さふべしや

       ぬかだのおおきみ                         

額田王   〈万葉18〉

  7c          

 飛鳥から近江への遷都に際して詠われた長歌に付された反歌。長歌の五七調のリズムをそのまま引き継いだ二句、四句切れの音律から額田王の切々とした息遣いが伝わってくるようだ。額田王は宮廷歌人というべき立場の人でもあって、このうたも神鎮めの勅命に応じて公式行事の一環として詠われたに違いない。
 代表作として愛誦される

(にぎ)田津(たつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな  〈万8〉

は新羅出兵にあたって天皇になり代って士気を鼓舞するべく詠ったものだし、

茜草(あかね)さす紫野ゆき標野(しめの)ゆき野守は見ずや君が袖振る      〈万20〉

も実は薬猟の宴席に際してこれを盛り上げる遊びのうただったというのが通説だ(折口信夫は“宴会の座興を催した歌”と述べている)。
 だが、この三輪山のうたは、そんな宮廷歌人という公的な立場を超えて、さらに額田王の個人的な感情が吐露されているような気がしてならない。三輪山は大和を代表する特別な山であり、現在でも山自体が神体として信仰の対象なのだという。その三輪山を離れ(見放-みさけ-)ていくのは額田王自身にとっても、畏れと哀傷をともなう痛切の思いだったはずだ。
(余談ながら、折口は‘野’には‘ヌ’とルビを振っていて、“茜草さす”のうたも‘ムラサキヌユキ、シメヌユキ、ヌモリハミズヤ…’と読んでいる。是非はともかくたった一音の違いでこの音律は実に心地よく感じられる。)

 

 

 

05

        しな             かど

夏草の思ひ萎えて偲ふらん妹が門見む靡けこの山

柿本人麻呂   〈万葉131〉

7-8c                                      

 このうたは実は短歌ではない。長歌の末尾の五七五七七部分なのだ。だが、あまりにも見事に短歌の体を成しているので、すっかり長歌に付された反歌だと思い込んでしまっていた。長歌の五七のリズムが突然ここで変調する。あるいはこの前で長歌は終り、ほんとうにこれは反歌だったのではないか、口伝え、筆写するうちに誤って定着してしまったのではないか、などと突拍子のない妄想も浮かぶ(もちろん、となると残ったものでは長歌の態をなさなくなってしまうが)。“靡けこの山”というのがすごい。貫之の仮名序にいう“あめつちをうごかし、めに見えぬ鬼神をも、あはれとおもはせ”とはまさにこのことだろう。また“思ひしなえてしのふらん”の‘シ’音の畳みかけもいい。勝手に人麻呂の代表作ということにする。

嗚呼見(あみ)の浦に船乗りすらむをとめらが玉裳(たまも)の裾に潮満つらむか    〈万40〉

(ひむがし)の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾ぶきぬ     〈万48〉

小竹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげども我は(いも)思ふ別れ来ぬれば     〈万133〉

しきたへの袖()へし君たまだれの越智野(をちの)に過ぎぬまた逢はめやも   〈万195〉

近江の(うみ)夕波千鳥汝が鳴けば心も(しの)にいにしへ思ほゆ        〈万266〉

 

 

 

06

            あしび

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに

おおくのひめみこ                               

大伯皇女 〈万葉166〉
661-701                             

 謀殺された弟の大津皇子を悼んだうた(“大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に大来皇女の哀傷(かな)しみて作らす歌”)。大伯皇女が万葉集に残した6首はすべて大津皇子を思って詠ったもの。万葉集にはしばしば儀礼的に大げさな言い回しが使われるが、大伯皇女のこのうたにそんな誇張は感じられない。‘馬酔木’という地味な花に託した思いが切ない。万葉で‘馬酔木’が詠まれているのは10首のみで、決して紋切り型的なイメージが託される花ではないのだ。(萩137首、梅119首、桜42首。)

我が背子を大和にやると小夜更けて(あかとき)(露に我が立ち濡れし     〈万105〉
ふたりゆけど行きすぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ   〈万106〉
神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに    〈万163〉
うつそみの人なる我れや明日よりは二上山を弟背(いろせ)()が見む     〈万165〉

 

 

 

07

 あ

我を待つと君が濡れけむ足引の山の雫にならましものを

いしかわのいらつめ                             

石川郎女 〈万葉108〉

7c             

 大津皇子のうた(“足ひきの山の雫に妹待つと我立ち濡れぬ山の雫に”)への返し。皇子が郎女の家の門口に立って待ったがついに入れてもらえず、山の雫に濡れてしまったよ、というのに、このうたの語句をほとんどそのまま取り入れて“それならわたしはその山の雫になりたかったわ”とはぐらかしたのだという。(折口信夫は“老獪な口ぶりで人を悩殺する歌と云ふべきだ”といっている。「口譯万葉集」)
 ところでこのうたは前記大伯皇女が大津皇子を思ってうたった「我が背子を…暁露に我が立ち濡れし」のすぐあとに出てくる。大津-大伯の悲劇に対するパロディとしての‘喜劇的息抜き’であり“あまりに悲惨なカタストロフィとのつなぎに、一種の相狂言としてこのような一齣が挿まれたのではないか”という説がある(山本健吉「万葉秀歌鑑賞」)。そうだとすれば、うーむ、やりすぎ?いや、なかなかやるな…?か、大伴家持。                     

 


  
08

いは     たるみ       さわらび

石ばしる垂水のうへの早蕨の萌え出づる春になりにけるかも

し き の み こ                                      

志貴皇子 〈万葉1418〉

 ?-716                                    

 万葉集巻8の巻頭歌。和歌史上もっとも有名なうたのひとつだろう。
 このうたを手本として、現代に至るまであまたの歌が詠まれた。これを本歌としたものとしては、
   岩そそく清水も春の声たててうちや出でつる谷のさわらび   藤原定家
   雪きゆる垂水のうへは萌えそめてまだ春しらぬ谷のさわらび  堯孝
 だが、題材よりも、このうたが後世まで人々の心に沁みとおっていったのは、情景を「… の … の」と重ねてゆく手法、そして結句を「なりにけるかも」とおおらかに結ぶうたの姿によるところが大きいのではないか。前者を踏襲した近代にいたっての例としては、
   ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲      佐々木信綱
 また、後者の例としては、
   高槻のこずゑにありて頬白のさへずる春となりにけるかも   島木赤彦
 などがある。しかし、これらの名歌とされるうたと比べても、志貴皇子のこのうたの魅力は抜きん出ている。なぜか。
 「懽(よろこび)の御歌」という題詞が示すように春を愛でるおだやかな語調だが、仔細に見れば、初句、二句には「い」「ば」「た」とむしろ硬い音が並ぶ。そして三句以降の冒頭が「さ」「も」「な」というやわらかな音で、それ以外の部分もカ行・タ行のような破裂音は少なくなる(皇子の「春の」と赤彦の「春と」の違いは大きい)。
 そしてその流れは音感上にとどまらない。
 助詞「の」によって情景を重ねるのだから、そのうたのイメージは静的なものになりそうである。現に信綱のうたは、カメラを徐々にズームアップしていき、見事な一幅の名画を浮かび上がらせるかのようだ。だが志貴皇子のうたはそのような静止画像的なイメージとは異なる。
 まず提示されるのは「石ばしる垂水」、岩にほとばしる滝。ここで動的なイメージが現れる。そして次の「早蕨」は一見静的な映像とも思えるがそうではない。「早蕨」は「萌え出づる」のである。
 すなわち、この歌は、初めに“岩にほとばしる滝水”という語感的にも硬くまた激しい動的なイメージからスタートして、“蕨が芽吹いていく”というおだやかに進行する微かな動的イメージに移行し、最後にその春が啓いていくさまを「なりにけるかも」と言祝ぐ詠み手の静かな眼差しに収斂する。語感上の推移、イメージ上の推移が見事に重なって、このうたは稀有な名歌となったのだ。
 (ところで志貴皇子のこのうたは新古今にも採られている。ただし次のように改悪されて。
   岩そそぐたるみのうへの早蕨のもえ出づる春になりにけるかな 〈新古32〉
 わずかな違いで、このうたの魅力はおおきく損なわれてしまった。こちらが後の世に流布しなかったのはさもこそあれというべきだろう。)

 

 


09

                          ゑ

青山を横ぎる雲のいちしろく我と笑まして人に知らゆな

おおとものさかのうえのいらつめ                              

大伴坂上郎女      〈万葉688〉

7-8c                                               

 みんなにばれちゃだめよ、といいながら、どうしてそういううたがおおっぴらになるのか。額田王の“あかねさす…”がそうだったように、これらはなかば公然の演技的ふるまいであって、はなしのネタを提供するくらいのサービス精神の所産だったのだろうか。

 

 


10

             たづ  よそ

闇の夜に鳴くなる鶴の外のみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに

かさのいらつめ                                

笠郎女  〈万葉592〉
8c                                   

 笠郎女のうたは万葉集に29首、ことごとく“大伴家持に贈る歌”との題詞がついている。とりわけ巻四の24首は家持への熱烈なラブコールが連なり、最後には成就しなかった恋の吐き捨てるような怨み言で終わる(“相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後(しりへ)に額付くごとし” -万608)。さながら笠郎女のモノローグで綴られる失恋ドラマを見るようだ。一方の家持は彼女が好みでなかったのか(女の深情けにいささか辟易とさえしていたのだろうか)、巻四は相聞の巻なのにこの求愛に応えることはなく、これら一連のうたのあとに、関係が決着したことをふまえた木で鼻をくくったような2首を載せる(“なかなかに黙(もだ)もあらましを何すとか相見初めけむ遂げざらまくに” -万612)。

 ところでこのような編集をしたのはほかならぬ家持なのである。俺ってこんなにもてるんだぜと自慢したかったのか、女としての魅力は感じなかったけれどそれはそれとしてうたは優れたものだったのでここに披瀝する、ということか。
 (しかし万葉集には“紀郎女、人を恨んで作った歌三首”とか、“大伴坂上郎女の男を恨んだ長歌併せて短歌”などと題されたうたが出てきて、まあ、この忌憚のなさが万葉の魅力でもあろうか。)

 

 


11

    くれなゐ          したで

春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ乙女

大伴家持 〈万葉4139〉

 718?-785                               

 変わったな姿のうただ。このようなうたは他にあるだろうか。もちろん体現止めのうたは普通にあるけれども、それは終句に向かってつらつらと修辞を重ねたうえ着地する。このうたは「春の苑」「紅にほふ桃の花」「下照る…乙女」と体現止めが三つ重なるのだ。それでもばらばらの印象にはならないけれど。

 なお、このうたの題詞に“春の苑の桃李の花を眺めて作る”とあって、すなわち家持は桃の花を見ているだけで、乙女というのは彼の妄想なのだ。

 …と書いたのだが、“紅にほふ”を連体形ではなく終止形ととる解釈もあるようだ。折口信夫はここで句点を打っている(「口譯万葉集」)。だが、同じ巻19の少し後の、家持の同趣の長歌では次のようにうたわれている。

桃の花 紅色に にほひたる 面輪のうちに 青柳の 細き眉根を 笑みまがり 朝影見つつ 乙女らが …(4192)

 すなわち、”紅にほふ”のは”桃の花”なのではないか。だが折口はこの部分を次のように訳している。

桃の花のやうな、紅色にほんのりと、色著いた顔の上に、青柳の葉のやうに細い眉毛を、惚々と上機嫌で…娘達が…

 となると、”紅にほふ”のは”乙女”なのか。では、二句切れもありか??

 だが、肝心の短歌を折口は次のように訳しているのだ。

春の庭、其処に紅色に咲きだした桃の花、其木蔭が、明らかに輝いて居る道に、家を出で立つて居る娘よ。

 なんだ、すると三句切れ?どっちなんだ??

 ― 多分。どっちでもない。家持は何句切れかなどたいして意識しないで詠んだのだろう。また、”紅にほふ”のが何にかかるか、などもあまり考えなかったのではないか。長歌の”桃の花”の部分も後に出てくる二上山にかかる序詞なので、蚕が糸を吐くように蜿々と修辞を重ねていて意味も曖昧だ。いかに言葉を連ねていくか、家持自身ほとんど文脈的な意味は意識してなかったのではないか。

 ちなみに、小野寛は次のように、二句切れとも三句切れとも取れるように訳している。けだし、この曖昧さを斟酌してのことか。(「大伴家持」)

春の庭がくれない色に照り輝いている。それは桃の花。その木の下の赤く照り映えている道につと立ちあらわれた紅に染まった美しい乙女よ。

夏山の木末(こぬれ(しげにほととぎす鳴き(とよむなる声の遥けさ      〈万1494〉

とこに聞けば遥けし射水川いみづかは朝漕ぎしつつ唄ふ舟人          〈万4150〉

うらうらに照れる春日(はるひ)にひばり上がり心悲しもひとりし思へば  〈万4292〉

 

 

 

12

 

山風にさくら吹きまきみだれなむ花のまぎれに立ちとまるべく

遍照   〈古今394〉

816-890                     

 紀貫之が古今和歌集の仮名序で評した6人がのちに六歌仙と称されることになったわけだが、貫之は決してここで褒めてはいない。それどころか、小野小町を除けばかなり辛口だ。遍照についても“哥のさまはえたれども、まことすくなし”と断じている。(大伴黒主などは“そのさまいやし”とさえいわれているのだ。)なぜこの評がもとになって‘歌仙’と称えられるようになったのか、不思議である。

 小倉百人一首の“天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ…”などもくだらないうたとしか思えないが、しかしこのうたはいい。詞書に“雲林院の皇子の舎利会に山にのぼりて帰りけるにさくらのはなのもとにて詠める”とある。亡くなった親王の法会からの帰り道、その別れを惜しんで自分を立ち止まらせるべく、行く手を見失わせるほどに桜が散り乱れてほしいというのである。

 

 

13

 

月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして

在原業平〈古今747/伊勢物語〉
825 - 880               

 古今集巻15(恋哥5)の巻頭歌。だが、なぜこれが恋のうたなのか、このうただけでは、さっぱり分からない。これには長い詞書がついている。思いを寄せていた女性(二条后高子)が他所に隠れてしまって便りをすることもできず、その翌年、梅の花盛りで月も美しく照る夜に、その女性がかつて住んでいたがらんとした板敷にうつぶして詠んだ。― なるほど。

 現在ではその二条后のサロンでつくられたフィクションだという説が有力だそうだが(中野方子「在原業平」)、フィクションだろうが、また恋のうたであろうがなかろうが、それを度外視しても、いいうたである。

さくら花散りかひくもれ老いらくの来むといふなる道まがふがに   〈古今349〉
寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな  〈古今644〉

 

 


14

  

君や来し我や行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか

読人不知〈古今645/伊勢物語69段-恬子内親王?〉

9c                                

 これにも詞書がついている。“業平の朝臣の伊勢の国にまかりたりける時、斎宮なりけるひとにいとみそかに逢ひて、またのあしたにひとにやるすべなくて、思ひをりけるあひだに、をんなのもとよりおこせたりける” 。― このうたの次に業平の返歌が載る。

かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人(よひと)さだめよ

              (伊勢物語では五句は“今宵さだめよ”)

 だが、ここは業平のうたより最初の贈歌のほうがはるかにいい。斎宮であった人というのも妄想をかきたてるが、[君や来し ⇔ 我や行きけむ] [夢か ⇔ 現か] [寝てか ⇔ 覚めてか] という三段重ねの対置法が、わざとらしいあざとさもなくむしろ一途な心情を鮮明に浮かび上がらせる。

 

 
15

 

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを

小野小町〈古今552〉

 9c            

 小野小町のことはほとんど分っていない。出自も身分も。美人だというのも古今和歌集の仮名序(“いにしへのそとほりひめの流なり”)を誤解したことから広まった。確かなのは古今に採られた18首のみ。実質的にはすべて恋のうたである。
 ちょうど平仮名が成立する頃のひとなので、後期のうたに先駆け的に掛詞・縁語が駆使され、万葉仮名の前期にはそれがない。前期と思われる8首中6首で‘夢’を詠っている。それも単に“~という夢をみた”というのではなく、“夢てふもの”とか“あはれてふもの”のように、それらを客観的に観念化して詠っているのが先駆的だという(大塚英子「小野小町」)。
 謎の実像、想像力をかきたてるうたから、様々な伝説が生まれた。驕慢(百夜通いの「通小町」)、落魄(「卒塔婆小町」、「小野小町九相図」)、「小野小町集」というあきらかに後世の作としか思えないものが混じった歌集がいくつも流布していて、小町の作と称するうたは100首を優に超える。
  うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめにき   〈古今553〉
  うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人目をよくと見るがわびしさ  〈古今656〉 
  かぎりなき思ひのままに夜も来む夢路をさへに人はとがめじ    〈古今657〉
  あはれてふことこそうたて世の中を思ひはなれぬほだしなりけれ  〈古今939〉
  花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに 〈古今112 - 百〉

 

 

 

16

 

花と散り玉とみえつつあざむけば雪ふる里ぞ夢に見えける

菅原道真〈新古今1695〉

845 - 903                             

 左遷され怨霊となった道真。だが、わが身をなげき京を偲ぶうたは、さすがにその当時の勅撰である古今集には採られていない。そんなうたが見られるようになるのはその後の勅撰集においてである。

さくらばなぬしを忘れぬものならば吹きこむ風にいひつたはせよ  〈後撰57〉

東風吹かばにほひおこせよ梅のはなあるじなしとて春をわするな  〈拾遺1006〉

雁がねの秋なくことはことわりぞかへる春さへなにかかなしき   〈続後撰57〉

草葉には玉とみえつつわび人の袖のなみだの秋のしら露      〈新古461〉

 

 

 

17

 

秋きぬと目にはさやかに見えねどもかぜの音にぞおどろかれぬる

藤原敏行〈古今169〉

 ? - 901                         

 “秋立つ日よめる”との詞書とともに古今集の巻四秋歌上の巻頭に載るうた。時季的に早いうただというせいもあろうが、うたとしても高く評価されたのだろう。視覚から聴覚への転換というほかにはこれといったひねりもないが、よどみない調べがじつに心地よい。その心地よさ自体がさわやかな秋の訪れにも照応しているようだ。このうたにしろ百人一首のうたにしろ、このひとのうたは妙な力みもなくスマートだ。
  なに人かきてぬぎかけし藤袴くる秋ごとに野辺をにほはす    〈古今239〉
  住の江の岸による波よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ    〈古今559 - 百〉   
  つれづれのながめにまさる涙川袖のみぬれて逢ふよしもなし   〈古今617〉

 

 

 

18

 

さくら花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞたちける

紀貫之〈古今89〉

 871? - 946               

 桜の花びらが散って、それが水のないはずの空に波が立ったように見える、というけっこう理屈っぽいなうたのはずなのに、風、水、空、波、が次々に繰り出されてめまいがしそうだ。意味など後回しになってしまう。(大岡信も次のように記している。“妙なことを書くようだが、私はこの貫之の歌を時折り思い起すたびに、ほとんど常に、「さくら花散りぬる」まで出て、あとの「風」「水」「空」「波」が順不同に浮かびあがってき、一首をすらすらと間違いなく詠むことが困難になるという経験をくりかえしている。[「紀貫之」]。“)

さくら散る木の下風は寒からで空にしられぬ雪ぞ降りける 〈拾遺64〉

影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたる我ぞわびしき 〈土佐日記〉

 

 

 

19

 

衣手ぞ今朝は濡れたる思ひ寝の夢路にさへや雨は降るらん

凡河内躬恒〈躬恒集〉

870? - ?                          

 詞書“雨の降る日、人におくる”。朝目覚めたら袖が濡れていた(係り結びの二句切れである)。あなたのことを思って寝たのに、夢の中でも(涙の)雨が降っているのか(ついにあなたは現れなかった)。

 夢の中にその人が現れるのは、(夢を見た)自分を思ってくれるしるしだと信じられていたらしい。

夕さらば()()開けまけてわれ待たむ夢に相見に来むといふ人を    大伴家持

うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめにき    小野小町

すなわち、これは“なんで僕を思ってくれなかったの”という恨み言を書き送ったうただということになる。

春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えね()やは隠るる   〈古今41〉

散りぬとも影をやとめぬ藤の花池の心のあるかひもなき   〈躬恒集〉

 

 

 

20

 

死出の山越えて来つらむ時鳥恋しき人のうへ語らなむ

伊勢〈拾遺1307〉

872? - 938~           

 死んでしまった宇多法皇との間の子の一周忌に詠んだうた。あの世と現世を往来するというほととぎすに亡き子の消息を聞きたいと訴える。

思ひ川たえず流るる水の泡のうたかたびとにあはで消えめや   〈後撰515〉

空蝉の()におく露の()(がくれてしのびしのびに濡るる袖かな    〈伊勢集〉

 

 

 

21

 

うつつには心もこころ寝ぬる夜の夢とも夢と人にかたるな

中務〈中務集〉

912? - 991?        

 一夜をともにした男が“うつつとも夢とも分からないうちに夜が明けてしまった”と言ってきたのに対する返し。“人にかたるな”のような命令形は現代の感覚ではけっこうきつく感じられるけれど、当時はそれほどでもないのだろう。“かたるなかれ”くらいの感じか。“心もこころ”“夢とも夢と”の言い回しがおもしろい。伊勢の子。80歳くらいまで生きたが、娘に先立たれたりもした。

  むすめにおくれ侍りて

忘られてしばしまどろむほどもがないつかは君を夢ならで見む  〈拾遺1312〉

  久しくわづらふころ

たくなはの夏の日ぐらし苦しくてなどかく長きいのちなるらむ  〈中務集〉

 

 

 

22

 

わぎもこが汗にそぼつる寝たわ髪なつのひるまはうとしとや見る

曽禰好忠〈曽丹集〉
923? - ?                      

 勅撰の詞歌集にもっとも多く入集し百人一首にも採られるほどの歌人なのに、出自等は不詳。家集‘曽丹集’にはなかなかユニークなうたが見つかる。勅撰よりおもしろいものが少なからずある。“汗びっしょりになって寝乱れた髪”などというのをうたったのはこの人くらいだろう。“うとましいなんて思うわけないじゃないか”といいながら、わざわざそう言ったのは、しかしとはいえ…という本音もあったからか。七夕の織姫を“空を飛ぶをとめ”というのも愉快だ。 

妹とわれ寝屋の風戸に昼寝して日高き夏の蔭をすぐさむ      〈曽丹集〉
蝉の羽の薄ら衣となりにしを妹と寝る夜の間遠(まどほ)なるかな      〈曽丹集〉

日暮るれば下葉こ(ぐら)き木のもとのもの恐ろしき夏の夕暮      〈曽丹集〉
妹がりと風の寒さにゆくわれを吹きな返しそさ衣の裾       〈曽丹集〉
空を飛ぶをとめの衣一日(ひとひ)より天の川波たちてきたるらし      〈曽丹集〉

由良の()をわたる舟人かぢをたえゆくへもしらぬ恋の道かな    〈新古1071 - 百〉

 

 

23

 

見し夢にうつつの憂きも忘られて思ひなぐさむほどのはかなさ

徽子女王〈斎宮集〉

 929 - 985                    

 9歳から16歳の間、斎宮として伊勢に下った。その後、村上天皇の女御に。

 掲出歌は新古今では下記のようになっているが、“ほどのはかなさ”のほうがよほどよりどころなさがにじみでていると思うのだが。

ぬる夢にうつつの憂さも忘られて思ひなぐさむほどぞはかなき   〈新古1383〉

* 

白露の消えにし人の秋待つと(とこよ)()の雁も鳴きて飛びけり      〈斎宮集〉

秋の陽のあやしきほどの夕暮に荻吹く風の音ぞ聞こゆる      〈斎宮集〉

 

 

 

24

                                       しのだ

うつろはでしばし信太の森を見よかへりもぞする葛のうら風

赤染衛門〈新古今1820〉

?                                      

 詞書“和泉式部、道貞に忘られてのち、ほどなく淳道親王にかよふと聞きて、つかはしける”。歌意は“心移りしないでしばらくは信太の森(=橘道貞、和泉式部の夫)を見守りなさい。葛の葉が風で翻るようにあの人が帰ってくることだってあるでしょうに”。赤染衛門と和泉式部は女房仲間。こんなことが言える間柄だったのだろう。これに対し、和泉式部は次のように返した。

秋風はすごく吹くとも葛の葉のうらみがほには見えじとぞ思ふ

 そんなこと言ってもだめよ、あの人なんか、みたいな感じだろうか。(和泉式部はこのとおりに道貞を離れて、為尊親王と関係を結ぶが26歳で夭逝してしまい、その翌年に淳道親王と恋に落ちる。その淳道親王も数年後に27歳で死んでしまう。)

 後拾遺集では、入集トップは和泉式部だが、赤染衛門も第3位。

起きもゐぬ我がとこよこそかなしけれ春かへりにし雁も鳴くなり  〈後拾遺275〉

やすらはで寝なましものをさ夜更けてかたぶくまでの月を見しかな 〈後拾遺680 - 百〉

踏めば惜し踏まではゆかむ方もなし心づくしの山桜かな      〈千載83〉

 

 

 

25

 

年暮れて我が世ふけゆく風のおとに心のうちのすさまじきかな

紫式部〈玉葉1036〉

 973? - 1014?                 

 寛弘5(1008)年(36歳頃)の「紫式部日記」に載るうた。その前に綴られる文 ―。

 “師走の二十九日にまゐる。はじめてまゐりしもこよひのことぞかし。いみじくも夢路にまどはれしかなと思ひ出づれば、こよなうたち馴れにけるも、うとましの身のほどやとおぼゆ。夜いたう更けにけり。御物忌みにおはしましければ、御前にもまゐらず、こころほそくてうち伏したるに、前なる人々の「うちわたりは、なほけはひ異なりけり。里にては、今は寝なましものを。さも、いざとき沓(くつ)のしげさかな」と、色めかしくいひゐたるを聞く。”
 「源氏物語」のなかに詠み込まれた数多くのうたはうたづくりの規範、ある意味ではステロタイプともいえるようなものだろう。(かの「六百番歌合」で判者の俊成は“源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也”と言っている。)

 その一方で、源氏の世界を離れた紫式部のうたには、折々に友に思いを寄せ、物思いにしずむ個人的な心情が垣間見える。「源氏物語」が執筆されはじめたのはこのうたの数年前からで、この頃にはすでに「源氏」の一部が流布して評判になりはじめていたはずなのだが ―。

北へ行く雁のつばさにことづてよ雲のうはがき書き絶えずして  〈新古859〉

消えぬ間の身をも知る知る朝がほの露とあらそふ世をなげくかな 〈玉葉239〉

垣ほ荒れさびしさまさるとこなつに露おきそはむ秋までは見じ  〈紫式部集〉

水鳥を水の上とやよそに見む我も浮きたる世を過ぐしつつ    〈紫式部集〉

鳴き弱るまがきの虫もとめがたき秋のわかれや悲しかるらん   〈千載478〉

ありし世は夢に見なして涙さへとまらぬ宿ぞかなしかりける   〈栄花物語〉

暮れぬまの身をばおもはで人の世のあはれを知るぞかつは悲しき 〈新古856〉

 源氏物語中歌

心あてにそれかとぞ見る白露のひかり添へたる夕顔の花       (夕顔)
恋ひわびて泣く音にまがふ浦波はおもふかたより風は吹かなむ    (須磨)
いにしへの秋の夕べの恋しきに今とは見えしあけぐれの夢      (御法)
霜冴ゆる汀の千鳥うちわびてなく音かなしき朝ぼらけかな      (総角)
ありと見て手にはとられず見ればまたゆくへもしらず消えしかげろふ (蜻蛉)

 

 

 

26

 

黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき 

     和泉式部〈後拾遺755〉

978? - 1027~                    

 和泉式部のうたといえばどうしてもこれになる。
 このうたについては、寺田透のあざやかな解釈がある(「和泉式部」)。
 “…この歌は、何かの悲しみにくれて打ち臥す自分を慰めてくれた男を歌ったものではけしてない。かの女の黒髪のみだれは、房事のはげしさがもたらしたものであり、かの女は自失の状態で自分の髪の毛にくるまれて倒れているのだ。そしてそれがつねのことで男の方が早くわれに帰る。そしてかの女の髪の毛を、かきやる、(というのは、単純に掻き撫でるのではありえないだろう。思いやる、言いやるという熟語動詞におけるのとおなじように「やる」という動詞がついている以上、乱れてかの女の顔をかくしていた髪の毛を、向うへ押しやるように掻きあげて、そうしてかの女の顔をのぞきこむようにした男が恋しいとこの歌は歌っているのであり、かの女が恋しているのは自分の肉体の征服者としての男なのだと断定してさしつかえない筈である。”
 この評をとりあげたうえで、さらに丸谷才一が次のように付け加える(「新々百人一首」)。
  “女は男欲しさに悶々とするあまり、髪の乱れるのもかまはずに身を伏せる。と、そのとき、かつての激しい性交ののち、ちようどこのやうに身を伏せたとき、乱れ髪をかきやつてくれた男が恋しくなる…といふのが一首の意なのである。つまり第一句から第三句までは過去と現在の双方に共通する身のこなしなので、そのまつたく同じふたつの動作が、一方は欲情ののちの姿、他方は男恋しさの発作といふ、対立した二枚の絵として並べられ、しかもその二枚が最後の「人ぞ恋しき」であざやかに重ね合せられるところに、この歌の驚くべき技巧があつた。”
 丸谷はさらに“古人が慎み深い口調でどんなにエロチックなことを述べてゐるかは、丁寧に読みさへすれば容易に理解できるはずである。”と得意げに書いている。
 ふたりの初老-中年(寺田56、丸谷50歳?)の評者が舌なめずりするように、このうたを味わっているさまが目にみえるようである。(なお、両人とも情事のさまと決めつけているが、単に泣いているところを慰められたのだとする説ももちろんある。)
 このうたを本歌にして定家は次の名歌を詠んだ。

かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふすほどは面影ぞたつ 〈新古1390〉

 *

野辺みれば尾花がもとの思ひ草かれゆく冬になりぞしにける    〈新古624〉
枕だに知らねばいはじ見しままに君かたるなよ春の夜の夢     〈新古1160〉
なぐさめて光の間にもあるべきを見えては見えぬ宵の稲妻     〈和泉式部続集〉
暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月     〈拾遺1342〉
もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる(たま)かとぞ見る    〈後拾遺1162〉

 

 

 

27

 

なにか思ふなにをか嘆く春の野に君よりほかに菫摘ませじ   

相模〈相模集〉
992? - 1061~   

 目の前の恋人にストレートに呼びかけるかのようなうた。もってまわった婉曲な修辞が多いこの時代の相聞のうたとしては、一応は比喩とはいえこんな直截な表現はめずらしいのではないか。だがこれは四季・恋・雑などで構成された百首歌のうちの一首である。すなわち題詠なので現実の相聞ではおそらくないだろう。妄想の産物と言うべきか。30歳頃の作。

 若い頃から和泉式部に傾倒していたと伝えられ、40歳過ぎまで歌壇では全く注目されなかったが、家集(相模集)をきっかけに俄然脚光を浴びて70歳にいたるまで表舞台で活躍した。

うたた寝にはかなくさめし夢をだにこの世にまたは見でややみなむ  〈千載904〉

稲妻はてらさぬ宵もなかりけりいづらほのかに見えしかげろふ    〈新古1354〉

 

 


28

 

浅みどり花もひとつにかすみつつおぼろにみゆる春の夜の月

菅原孝標女〈新古56/更級日記〉

1008 - ?                                               

 「更科日記」に見えるうた。春と秋とどちらに心を寄せるかと源資通に問われて答えたもの。(新古今の詞書とはやや事情を異にする。*) これといった技巧も駆使されていないけれど、姿のよいうただ。

 「源氏物語」に耽溺した文学少女だったさまが「更級日記」に追想されている。「夜半の寝覚」「浜松中納言物語」の作者でもあるともいわれる(定家自筆本奥書)が、歌人としてはさほど活躍した形跡はない。

* “祐子内親王藤壺に住み侍りけるに、女房うへ人などさるべきかぎり物語して、「春秋のあはれいづれにか心ひく」などあらそひ侍りけるに、人々おほく秋に心をよせ侍りければ”

 

 

 

29

 

雲はらふ比良の嵐に月さえて氷かさぬる真野のうら波

源経信〈経信集〉

1016 - 1097            

 “氷かさぬる…浦波”という表現が寒々とした情景をまざまざと描き出す。「後鳥羽院御口伝」に“大納言経信、殊にたけもあり、うるはしくしてしかも心たくみに見ゆ”と評されている。有職に通じ詩歌や管弦にも堪能な多才な人だったという。

 ‘氷’を詠んだうたさらに一首。

月きよみ瀬々の網代による氷魚(ひを)は玉藻にさゆる氷なりけり   〈金葉268〉

 

 


30

 

風ふけば蓮の浮き葉に玉こえて涼しくなりぬ日ぐらしのこゑ

源俊頼〈金葉145〉

1055- 1129                

 詞書‘水風晩涼といへることをよめる’。すなわち夕景ということになる。蓮の葉のうえの玉状の水が風でころがり落ちる。蜩の声も聞こえてきた。涼やかな気持ちのいいうた。

 経信の3男。王朝から院政への端境期に生き、新古今への橋渡しをになったとも評される。金葉集の撰者。金葉、千載の最多入集歌人。

あさりせし水のみさびにとぢられて菱の浮き葉にかはづ鳴くなり  〈千載203〉 

おぼつかないつか晴るべき侘び人の思ふこころやさみだれの空   〈千載179〉

鶉鳴く真野の入江のはま風に尾花なみよる秋の夕暮        〈金葉239〉

 

 

 

31

                        かたの       み の

またや見む交野の御野の桜狩り花の雪ちる春の曙

藤原俊成〈新古114〉

 1114 - 1204                    

 またやみむ かたのののの さくらがり はなゆきちる はるあけぼ

 31音中なんと‘の’が7つもある。このたゆたうようなリズムが夢を見るような追想の情景へといざなう。俊成82歳にして詠んだ最高傑作。

ながめするみどりの空もかき曇りつれづれまさる春雨ぞふる   〈玉葉102〉

いくとせの春に心をつくしきぬあはれと思へみ吉野の花     〈新古100〉

思ひきや別れし秋にめぐり逢ひてまたもこの世の月を見むとは  〈新古1531〉

夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里       〈千載259〉

まれに来る夜半もかなしき松風をたえずや苔の下に聞くらむ   〈新古796〉

 

 

 

32

 

風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬ我が思ひかな

西行〈新古1613〉

 1118 - 1190             

 初句、三句が字余りになっている。これが5音に収まっていたら、このうたはさほどの魅力をもたなかったのではないか。例えば次のように ―。

風吹けば富士の煙の空に消えゆくへも知らぬ我が思ひかな

 これでは“ゆくへも知らぬ”心はさしたるものとは思えなくなってしまう。

 西行自ら“これぞわが第一の自嘆(讃)歌と申ししことを思ふなるべし”と語ったと、慈円の「拾玉集」は記している。

きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るかこゑの遠ざかりゆく   〈新古472〉

津の国の難波の春は夢なれや蘆の枯葉に風わたるなり      〈新古625〉

古畑のそはの立つ木にゐる鳩の友呼ぶこゑのすごき夕暮     〈新古1676〉

いとほしやさらに心の幼びて(たま)ぎれらるる恋もするかな     〈山家集〉

底澄みて波こまかなるさざれ水わたりやられぬ山川のかげ    〈聞書集〉

年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜(さや)の中山     〈新古987〉

願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ     〈続古今1527〉

 

 

33

 

散りにけりあはれうらみの誰なれば花のあととふ春の山風

寂蓮〈新古155〉

? - 1202                

 寂蓮は同時代の「歌仙落書」に次のように評されている。“風体あてやかにうつくしきさまなり、よわきところやあらむ、小野小町があとをおもへるにや、美女のなやめるをみる心地こそすれ”。だが、寂蓮が与する御子左家・定家らの急進派と旧派の六条藤家が激しくぶつかり合った建久4(1193)年の「六百番歌合」での寂蓮(俊成の猶子であり定家は従弟になる)の様子を、頓阿の「井蛙抄」は次のように伝えている。

 “自余人数不参の日あれども、寂蓮、顕昭は毎日参ていさかひありけり。顕昭はひじりにて独鈷(法具)をもちたりけり。寂蓮はかまくびをもたてていさかひけり。殿中の女房、例の独鈷かまくび”と名付けられけりと云々。”

鵜飼ひ舟高瀬さしこすほどなれやむすぼほれゆくいさり火の影  〈新古252〉

野分せし小野の草ぶし荒れはてて深山にふかきさを鹿のこゑ   〈新古439〉

たえだえに里わく月の光かな時雨をおくる夜半のむら雲     〈新古599〉

 

 

34

 

山たかみ嶺の嵐に散る花の月にあまぎる明け方のそら

二条院讃岐〈新古130〉
1141? - 1217~                

 宇治川の合戦で平氏に敗れ自害した源頼政の娘。千載集に採られた百人一首の“わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわくまもなし”が評判となって‘沖の石の讃岐’と称えられた。(塚本邦雄はこのうたを、凡作だらけの小倉百人一首のなかで唯一その歌人の代表作といっていいうただと言っている。) 70を優に超える長寿だったが、晩年まで歌壇で活躍している。

涙川たぎつ心のはやき瀬をしがらみかけてせく袖ぞなき     〈新古1120〉

鳴く蝉のこゑもすずしき夕暮に秋をかけたる杜の下露      〈新古271〉

おほかたに秋の寝ざめの露けくばまた誰が袖にありあけの月   〈新古435〉

世にふるはくるしきものを槙の屋にやすくもすぐる初しぐれかな 〈新古590〉

思ひ寝の花を夢路にたづねきて嵐にかへるうたた寝の(とこ)     〈二条院讃岐集〉

夢にだに人を見よとやうたた寝の袖吹きかへす秋の夕風     〈二条院讃岐集〉

 

 

 

35

 

ほととぎすそのかみ山のたびまくらほのかたらひし空ぞ忘れぬ

式子内親王〈新古1486〉

 1149 - 1201                          

 和歌が発生してこの方、一体どのくらいのうたが詠まれたのだろう。今でも日に千、万の単位で作られているだろうか。累計では想像も及ばない数だ。億とか兆でもきくまい。そんななかでのただ一首を選ぶとすれば ― など、考えただけでも気が遠くなるようなはなしである。だが、それでもあえて、とふと思って浮かぶのはこの一首だ。うたのすがたの美しさ、込められた思いの深さ。厖大な数の、しかもさまざまな趣向のうたを振り捨ててでもこの一首を採りたくなる。

 究極、とか最高峰というようなニュアンスとはいささか違う。極め付けの ― といえば例えば定家の

春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるるよこぐもの空      〈新古38〉

  などが思い浮かぶ。人麻呂の残照が、さらには塚本邦雄への予兆がここにある。だが同時に、この到達は行きつくところまで行きついた袋小路の一歩手前とも思える。激しく唸りをたてて回っていた独楽がぴたりと静止したときのような感覚とでも言おうか。

 一方この式子のうたにも、源氏物語をはじめとした先例*なども踏まえられてはいる。けれども、それなのにそんな約束事を重く引きずってはいない。高貴な皇女でありながら、臣下の俊成の指導を受け、当時の最前衛の定家や良経、慈円などとも影響しあっているのに、またこの時代のうたがいずれ自縄自縛の無機的なシステムにいやおうなく収斂しそうな予感があるのに、式子のうたはあくまでも式子の感性に根をおろして衆に紛れることはない。斬新で清冽な表現はあっても、あざとく浮わついた調べが垂れ流されることはない。

* をちかへりえぞ偲ばれぬほととぎすほのかたらひし宿の垣根に  (源氏物語 花散里)

 詞書“斎(いつき)のむかしを思ひ出でて”とあるとおり、11~21歳の11年間卜定した賀茂齋院時代を追想したうた。空にむけた式子の透徹した眼差しが印象的だ。(初、二句と三、四句の頭が“ほ”“そ”“ほ”“そ”と頭韻を踏んでいることを、“計算の他”であろうが、とことわりつつ塚本邦雄が指摘している。「新古今新考」)

  式子のうたは、繊細であっても、決して弱々しくはない。そのしなやかに芯の通った凛とした後姿が見えるようだ。そして時に、その‘荒ぶるこころ’が、端然とした姿のうちに垣間見えたりもする。

見しことも見ぬゆくすゑもかりそめの枕に浮かぶまぼろしのうち   〈式子内親王集〉

生きてもよ明日まで人はつらからじこの夕暮をとはばとへかし    〈新古1339〉

斧の柄の朽ちしむかしはとほけれどありしにもあらぬ世をもふるかな 〈新古1672〉

暮るるまも待つべき世かはあだし野の末葉の露に嵐立つなり     〈新古1847〉

日に()たびこころは谷になげはててあるにもあらずすぐるわが身は  〈式子内親王集〉

 後白河院の子として生まれながら、貴族の世が武家のものに移っていった逆境の時代に生きた。だがくよくよと過去に未練を残し、現在をじめじめとした感傷に浸すことはない。残されたそのほとんどが百首歌の題詠でありながら、‘恨む’‘嘆く’のような用語はめったに見られない。数多く用いられるのは‘ながむ’‘ながめ’といった語句である。(小田剛「式子内親王全歌新釈」の『全歌自立語索引』によってカウントすれば、全407首中‘ながむ’‘ながめ’が用いられたうたは33首を数える。)

花は散りてその色となくながむればむなしき空に春雨ぞふる     〈新古149〉  

ながめつる今日はむかしになりぬとも軒端の梅はわれを忘るな    〈新古52〉
ながめわびぬ秋よりほかの宿もがな野にも山にも月や澄むらん    〈新古380〉
いま桜咲きぬとみえて薄ぐもり春にかすめる世のけしきかな     〈新古83〉
八重にほふ軒端のさくらうつろひぬ風よりさきに訪ふひともがな   〈新古137〉
まどちかき竹の葉すさぶ風の音にいとどみじかきうたたねの夢    〈新古256〉
うたたねの朝けの袖にかはるなりならす扇の秋のはつ風       〈新古308〉
山ふかみ春ともしらぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水       〈新古3〉

 …ため息が出るほどうつくしい。

 (小倉百人一首の“玉の緒よ…〈新古1034〉”は式子の実体験に基づく激情を詠ったものととられがちだが、百首歌のなかの“忍恋”の題詠であり、男の立場で秘めた恋心を詠むという決まり事に依ったたものだという(田渕句美子「異端の皇女と女房歌人」)。現代で言えば女性シンガーが男言葉で歌うようなものか。)

 

 

 

36

 

明けばまづ木の葉に袖をくらぶべし夜半の時雨よ夜半の涙よ

慈円〈拾玉集〉

 1155 - 1225        

 天台座主にして後鳥羽院歌壇の重鎮。後鳥羽院と何度も贈答歌をかわすほど親しかった。(“大僧正はおほやう西行がふりなり。すぐれたる哥いづれの上手にも劣らず、むねと珍しき様を好まれき。そのふりに多く人の口にある哥あり。…されども世の常にうるはしく詠みたる中に最上の物どもはあり”-「後鳥羽院御口伝」) 新古今には西行に次ぐ92首が採られた。四季、恋歌も詠んでいるが、やはり雑歌、神祗、釈教が目立つ。「愚管抄」は承久の乱に向かう後鳥羽院を諌めようとして書かれたものだという。

散りはてて花のかげなき()のもとに立つことやすき夏衣かな     〈新古177〉
身にとまる思ひをおきのうは葉にてこの頃かなし夕暮の空      〈新古352〉
染むれども散らぬたもとに時雨きてなほ色ふかき神無月かな     〈拾玉集〉
木の葉ちる宿にかたしく袖の色をありともしらでゆく嵐かな     〈新古559〉
蓬生(よもぎふ)にいつか置くべき露の身はけふの夕暮あすの曙           〈新古834〉
旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢をみるかな      〈千載533〉

 

 

 

 37

                    あさぢ

風わたる浅茅がすゑの露にだにやどりもはてぬよひの稲妻

藤原有家〈新古377〉

1155 - 1216               

 風に吹かれてこぼれおちてしまう露、そしてその露に一瞬きらめく稲妻。その刹那的なはかなさがこのうたの眼目だ。新古今に秋歌として採られている。

 旧派六条家ながら御子左家に親しみ、定家らとともに新古今撰者となった。

旅衣かへす夢路はむなしくて月をぞ見つる有明の空      〈新勅撰970〉

橘のにほひを風のさそひきて昔にかへす夜半のさ衣      〈六百番歌合〉

夕涼み閨へもいらぬうたた寝の夢をのこして明くるしののめ  〈六百番歌合〉

 

 


38

 

今や夢昔や夢とまよわれていかに思へどうつつとぞなき

建礼門院右京大夫〈風雅1915〉

12C半ば? -                                    

 かつて仕えた建礼門院徳子(安徳天皇母)が住む大原寂光院を訪ねた際のうた。

 新勅撰集を編む定家に求められて家集として提出した「建礼門院右京大夫集」にも載る。「大夫集」のうたには多くに長文の詞書がついていて日記文学としても評価される。情緒纏綿とした追想のままに繰り出されるうたは、概して洗練には欠けるようにも思われて、その嫋嫋たる繰り言についたじろがされたりもする。

 

 

 

39

 

桜花夢かうつつか白雲のたえてつれなき嶺の春風

藤原家隆〈新古139〉

 1158 - 1237                   

 新古今集中屈指の名歌。だが同時に書き割り的類型にいたる一歩手前の危うさも感じる。和歌が爛熟するこの時期の歌人全般に通ずることでもあろうか、定家や良経らとともに前衛を担い歌壇の最前線にいたわけだが、夏炉冬扇、生身の現実と遊離した言葉だけによって作り出される虚構の世界に、退嬰ぎりぎりの爛熟美が顕ち現われるようだ。

春風に下ゆく波のかずみえて残るともなきうす氷かな       〈風雅35〉

むば玉の闇のうつつの鵜飼い船月のさかりや夢も見るべき     〈壬二集〉

軒ちかき山の下荻こゑたてて夕日がくれに秋風ぞ吹く       〈壬二集〉

雁がねの聞こゆるそらや明けぬらむ枕にうすき窓の月かげ     〈続古今461〉

思ひ入る身は深草の秋の露たのめしすゑや木枯らしの風      〈新古1337〉

逢ふとみてことぞともなく明けぬなりはかなの夢のわすれがたみや 〈新古1387〉

明けばまた越ゆべき山の嶺なれや空行く月のすゑの白雲      〈新古939〉

 

 

 

40

 

年も経ぬ祈るちぎりは初瀬山をのへの鐘のよその夕ぐれ

藤原定家〈新古今1142〉

1162 - 1241                          

 達磨歌とか狂言綺語と難じられ、この「六百番歌合」の際にも判者の父俊成にさえ“なにを言っているんだかよくわからない(心にこめて詞確かならぬにや)”と言われている。無理ともいえるほどに歌意を詰め込んだ内容*もさることながら、同じ母音を執拗に畳みかける韻律の切迫がなんとも異様だ。
  TOSHIMOHENU NORUCHHA HATSUSEYAMA
  WHENKANEN YRE
 とりわけ二句の音の畳みかけ(イ・・イイイ)を口遊むたび、唐突だが、アンプが悲鳴をあげるかのように激しくひずむジミ・ヘンドリクスのギターを連想してしまう。そしてそれを鎮めようとするかのような下二句の音の陰々たる沈潜、継いで締めの音の不気味な静もり。いちど取り憑かれたらもう忘れることのできないうただ。

* 村尾誠一による口語訳(「藤原定家」)は次のとおり。

“長い年月を経てしまった。二人の恋が長く続くことを祈り続けてきたが、ついに終わってしまった。今もう一度身を置いている初瀬山では峰の上で鐘が鳴っている。もう自分とは無関係な夕暮が来たことを告げている。” …うーむ。

こほりゐるみるめなぎさのたぐひかはうへおく袖のしたのささ浪  〈拾遺愚草〉

消えわびぬうつろふ人の秋の色に身をこがらしの森の下露     〈新古1320〉

かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふすほどは面影ぞたつ    〈新古1389〉

移り香の身にしむばかりちぎるとて扇の風のゆくへたづねむ    〈拾遺愚草員外〉
たづね見るつらき心の奥の海よ潮干の(かた)のいふかひもなし     〈新古1332〉

春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるる横雲の空        〈新古38〉

 

 

 

41

 

帰る雁今はのこころありあけに月と花との名こそをしけれ

九条良経〈新古62〉

1169 - 1206                 

 常套句ばかりでできているようなうたなのに、まったく凡庸でないところが良経の非凡さだろう。‘帰る雁’はすでにありきたりな題であり、新古今でもこのうたの前に次のようなものが並んでいる。

いまはとてたのむの雁もうち侘びぬ朧月夜のあけぼのの空   寂蓮〈新古58〉

聞く人ぞなみだはおつる帰る雁鳴きていくなるあけぼのの空  俊成〈新古59〉

忘るなよたのむの沢をたつ雁もいなばの風の秋の夕ぐれ    良経〈新古61〉

 だがこのうたの切れ味は際立っている。帰る雁を惜しむという常套ではなく、雁を引き留められないのは月と花の名折れだという意味的な新味もあろうが、弛緩したところのない 一首としての引き締まった姿のよさがなんといっても魅力だ。良経のうたには、他の歌人にはない独特の‘グルーヴ感’(?)がある。意味以前に、ある種の陶酔感をもたらすような韻律の心地よさがあるのだ。定家とも式子とも異なる、王朝和歌の一頂点だろう。

 「後鳥羽院御口伝」は良経を評して“故摂政はたけをむねとして諸方を兼ねたりき。いかにぞやと見ゆる詞のなさ、哥ごとに由あるさま、不可思議なりき。百首などのあまりに地哥もなく見えしこそかへりては難ともいひつべかりしか。秀哥のあまり多くて両三首などは書きのせがたし。(=代表的なうた2~3首を選ぶのが難しいほどだ。)” と記している。絶賛である。

空はなほ霞みもやらず風冴えて雪げにくもる春の夜の月      〈新古23〉

明日よりは志賀の花園まれにだに誰かはとはむ春のふるさと    〈新古174〉

散る花も世を浮雲となりにけりむなしき空をうつす池水      〈秋篠月清集〉

明け方の深山の春の風さびてこころくだけと散る桜かな      〈秋篠月清集〉

うちしめりあやめぞ薫るほととぎす鳴くや五月の雨のゆふぐれ   〈新古220〉

ほととぎすいま幾夜をか契るらむおのがさつきの有明のころ    〈新勅撰176〉

秋ちかきけしきの森に鳴く蝉のなみだの露や下葉染むらむ     〈新古270〉

ありし夜の袖の移り香消えはててまた逢ふまでの形見だになし   〈秋篠月清集〉

幾夜われ波にしをれて貴船(きふねがわ)袖に玉散るもの思ふらむ       〈新古1141〉

言はざりき今来むまでの空の雲月日へだててもの思へとは     〈新古1293〉

恋しとはたよりにつけて言ひやりき年は還りぬ人は帰らず     〈秋篠月清集〉

 

 

 

42

 

葛の葉のうらみにかへる夢の世をわすれがたみの野辺の秋風

俊成卿女〈新古1563〉

1171? - 1252~            

 超絶技巧 俊成卿女の面目躍如。定家に匹敵する技巧派で新古今を代表する女流。宮内卿とともに、うたを詠むことを専門とする女房という異例の立場で後鳥羽院に召された。

 俊成の養女で、定家は叔父。だが、不思議なことに定家は小倉百人一首に俊成卿女のうたを入れていない。のみならず、晩年の定家が撰者となった「新勅撰集」にもわずか8首しか採っていない。また俊成卿女も「新勅撰集」について“新勅撰はかくれごと候はず、中納言入道殿ならぬ人のして候はば、取りて見たくだにさぶらはざりし物にて候。(率直に申せば、定家卿でない人が撰進したものなら、手に取ってみることもしたくない集です。)”と定家の子為家に書き送っている。“父俊成の後継者はほかならぬ自分だけだという定家の矜持と反発もあったのではないか”、“俊成卿女と定家とは、かなり前から心理的な距離がある関係だったように思われる(「異端の皇女と女房歌人」)”と田渕句美子は書いている。近親憎悪か。

* なお冒頭のうたの口語訳は次のとおり(近藤香「俊成卿女と宮内卿」)。

“葛の葉がザワザワと白い裏を見せて風に靡いている野辺。わが心も裏を返すように過去の恨みがよみがえる。夢の世とも言えるその過去は忘れ難い記念のようだ。夢であればいいのに秋風は恨みを思い出さずにはいない。

う~む…。でも、これだけ内容が詰め込まれているのに、ごてごて感がなくさらりと読めてしまうのがさすがだ。

風かよふ寝覚めの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢        〈新古112〉

下燃えに思ひ消えなむ(けぶり)だにあとなき雲のはてぞかなしき       〈新古1081〉

面影の霞める月ぞやどりける春やむかしの袖の涙に         〈新古1136〉

降りにけりしぐれは袖に秋かけて言ひしばかりを待つとせしまに   〈新古1334〉

流れての名をさへ忍ぶ思ひ川逢はでもきえぬ瀬々のうたかた     〈新勅撰704〉

 

 

 

43

                   をとめご

風は吹くとしづかに匂へ乙女子が袖ふる山に花の散るころ

後鳥羽院〈後鳥羽院御集〉

1180 - 1239                            

 正治2年の百首歌のうちの一首。俄然うたを詠み始めてから2年目の21歳の作ということになる。すでにゆったり堂々たる‘帝王ぶり’がいかんなく発揮されていることに驚かされる。本歌は人麻呂の次の歌。

乙女らが袖振る山の瑞垣(みづがき)のひさしき時ゆ思ひき我は  〈万501〉

 

見わたせば山もと霞む水無瀬川ゆふべは秋となに思ひけむ   〈新古36〉

み吉野の高嶺のさくら散りにけり嵐もしろき春のあけぼの   〈新古133〉

ほととぎす雲ゐのよそに過ぎぬなり晴れぬ思ひの五月雨のころ 〈新古236〉

月夜よし夜よしとたれに告げやらむ花あたらしき春のふるさと 〈後鳥羽院御集〉

野辺における露をば露とながめ来ぬ花なる玉か雁の涙は    〈後鳥羽院御集〉

わたつみの浪の花をば染めかねて八十島とほく雲ぞしぐるる  〈後鳥羽院御集〉

霞みゆく高嶺を出づる朝日影さすがに春のいろを見るかな   〈遠島百首〉

あやめふく茅が軒端に風すぎてしどろに落つる村雨の露    〈玉葉345/遠島百首〉

 

 

 

44

 

うすくこき野辺のみどりの若草に跡までみゆる雪のむら消え

宮内卿〈新古76〉

1184? - 1204?          

 ‘若草の宮内卿’の名で讃えられることになった宮内卿16歳の詠。

 ここにはふたつの時間の情景が重ね合されている。すなわち、現在の春の、青々と色づきあるいはまだみどりのうすい眼前の若草の情景。それからその濃淡を生じさせる誘因となった、積った雪がところどころまだらに消えあるいは残っている冬の情景。知的に構成されながらも実に優美な調べだ。

 このうたは、後鳥羽院が詠進させた千五百番歌合に含まれ、“かまへて、まろがおもて起こすばかりよき哥つかうまつれ (ぜひとも私のほまれともなるような優れたうたを詠進せよ)”と言葉をかけられ、宮内卿は“おもてうち赤めて涙ぐみてさぶらひけるけしき…”と「増鏡」に記されている。

 俊成卿女と同様うたを詠む専任の女房として、若年にして後鳥羽院に仕えた。だが、そのプレッシャーのあまりか、“この人はあまり歌を深く案じて病になりて、ひとたびは死にはづれしたりき。…つひに命もなくてやみにしは…(鴨長明「無明抄」)”と伝えられる。また後に“宮内卿ははたちよりうちになくなりにしかば…”と「正徹物語」に記されている。宮内卿の活躍はわずか4年ばかりだった。

花さそふ比良のやまかぜ吹きにけり漕ぎゆく舟の跡見ゆるまで   〈新古128〉

逢坂やこずゑの花を吹くからに嵐ぞかすむ関の杉むら       〈新古129〉

 

 

 

45

 

萩の花くれぐれまでもありつるが月いでて見るになきがはかなさ

源実朝〈金槐和歌集〉

1192 - 1219                    

  詞書“庭の萩、わずかに残れるを、月さし出でてのち見るに、散りにたるにや、花の見えざりしかば”。 だが、この花は実際に散ったのか、と川田順が疑問を呈しているという。“愚考によれば、この時萩の花はまだ散っていない。月光に見失っただけである。暮々までも、たった今迄見ていた、咲いていた萩の花が瞬時に散り終わる筈がない。萩の花は、たとい風が吹いてもそうした散り方をする植物ではない。(三木麻子「源実朝」から孫引)”

 しかし、月が出て明るくなったのにかえって見えなくなる、ということがありえようか。逆だろう。萩の花はそもそも咲いてなかったのではないか。すなわち、これは夕間暮れのなかで実朝が見たつもりになっていた花だ。月明かりのもと、それが幻視の花であったことに気付かされるのだ。“はかなさ”とはそのことだろう。

 頼朝の次男として生れるが、北条氏に実権を奪われながら3代目将軍に祭り上げられ、源氏の正統は自分で絶えると覚悟していた。たしかにあるはずだったと思っていたものは、実ははかなくも存在していなかった…。このうたに、実朝の境涯を重ね合わせるのは附会にすぎるだろうか。

夕月夜おぼつかなきを雲間よりほのかに見えしそれかあらぬか    〈金槐〉

くれなゐの千入(ちしほ)のまふり山の端に日の入るときの空にぞありける   〈金槐〉

空や海うみやそらともえぞ分かぬ霞も波もたち満ちにつつ      〈金槐〉

流れゆく木の葉のよどむえにしあれば暮れてののちも秋は久しき   〈金槐〉

大海(おほうみ)の磯もとどろに寄する波われてくだけてさけて散るかも     〈金槐〉

箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ     〈続後撰1312〉

 

 

 

46

 

人知れぬ身をうつせみの木隠れてしのべば袖にあまる露かな

順徳院〈建保二年内裏歌合〉

1197 - 1242                               

 十八歳の詠。後鳥羽院の子。定家に学び、俊成卿女とも親しくうたを贈答した。

 後鳥羽院とともに承久の変をおこして敗れ、佐渡に流される。21年過ごしたのち絶食して死んだと伝えられる。

風吹けば峯のときは木つゆ落ちてそらよりきゆる春の淡雪      〈新拾遺1532〉

蝉の()のうすくれなゐの遅桜をるとはすれど花もたまらず      〈紫禁和歌草〉

菅原やふしみの里の笹まくら夢も幾夜のひとめよくらむ       〈続後撰730〉

もみぢ葉をあるかなきかに吹きすててこずゑにたかき冬の木枯らし  〈紫禁和歌草〉

(こと)の葉もわが身しぐれの袖のうへにたれをしのぶの森の木枯らし   〈続拾遺1016〉

 

 

 

47

 

花のうへにしばしうつろふ夕づく日入るともなしにかげ消えにけり

永福門院〈風雅199〉

 1271 - 1342                    

 行きつくところまでいった新古今以降、和歌は約束事だらけの自縄自縛の袋小路に陥った。“見ざる事をも見、きかざることをもきき、おもはざる事をもおもひ、なき事をもあるやうによむをもて、歌の義となす(「野守鏡」)”という定家直系の二条派にたいして、和歌史上のあだ花のようにして京極派が生まれた。“おのおのともかくも心にまかせて、思ひ思ひに詠むべき(「野守鏡」)”。しかしその先導者 京極為兼にしろ、永福門院を中宮とした伏見院にしろ、そこそこおもしろいけれど、どうしても採り上げたいほどのうたは見つけられなかった。

 この永福門院のうたも、一見ただ目に映るおだやかな情景をそのまま詠んだだけのようにみえる。おなじような、日がおちて刻々と暮れていくさまを、永福門院は繰り返し詠んでいる。だがこれらのうたをみているうちに、しだいにどこか尋常でないものが感じられてきてしまうのはなぜか。門院は実際に影が消えていく情景を、しずかに端座してみつめつづけていただろう。うたに詠まれるのはその時間だ。それはほんとうに平穏な時間であったかどうか。

 持明院統の中心にあって、動乱の南北朝時代を生きた。京極為兼が失脚し、伏見院も崩御し、門院は京極派の中心的な役割も担ったという。その激動の環境のなかにあって、どうしてこのような‘一見穏やかな’うたが生まれるのか。

 三島由紀夫は十代のころ永福門院を読んで、次のように手紙を書いた。“こういう歌をよんだ女性は美しくない筈はないと私は確信を以ていうことができます。中世というところには実に貴重な宝石がころがっているように思われます。(「三島由紀夫 十代書簡集」)” また、折口信夫をモデルにしたといわれる短編「三熊野詣」にも門院のうたを数首引いている。折口もまた永福門院を高く評価していた。

夕づく日軒端の影は移り消えて花のうへにぞしばし残れる     〈百番御自歌合〉  
真萩ちる庭の秋風身にしみて夕日のかげぞ壁に消えゆく      〈風雅478〉
山あひにおりしづまれる白雲のしばしと見ればはや消えにけり   〈風雅1685〉

空きよく月さしのぼる山の端にとまりて消ゆる雲の一むら     〈玉葉643〉
入相(いりあひ)のこゑする山のかげくれて花の木のまに月いでにけり     〈玉葉213〉

山もとの鳥の声ごゑあけそめて花もむらむら色ぞみえゆく     〈玉葉196〉

木々のこころ花ちかからしきのふけふ世はうすぐもり春雨のふる  〈玉葉132〉

我も人もあはれつれなき夜な夜なよ頼めもやらず待ちもよわらず  〈風雅1062〉

宵々の夢のゆくへのあやしさよ我が思ひ寝か人のこころか     〈百番御自歌合〉

 

 

 

48

 

散るは憂きものともみえず桜花あらしにまよふあけぼのの空

二条為子〈後拾遺120〉

 ?                                    

 二条派の総帥 二条為世(1250-1338)の子。すっかりマンネリ化した二条派は為氏も為世もまったくおもしろくもないが、為子のうたはちょっといい。骨董屋の奥で埃をかぶりながら、おっ、と思わせるようなうた。“散ってしまってもいいではありませんか、嵐に乱れ舞うとしても”というような口ぶりに、この時代のニヒリズムのようなものを連想するのは筋違いか。

憂しとおもふ風にぞやがてさそはるる散りゆく花をしたふ心は  〈新後撰125〉
ものおもふ雲のはたてに鳴きそめて折しもつらき秋の雁がね   〈新続古今524〉

やがてまた草葉の露もおきとめず風よりすぐる夕立の空     〈嘉元百首〉

 

 

 

49

 

心うつすなさけもこれも夢なれや花うぐひすのひとときの春

徽安門院〈風雅204
1318 - 1358             

 花園院の皇女。風雅ののち、ふたたび二条派に歌壇の主流を奪われ、やがて京極派は消滅してしまう。その最後のほのかな輝きをはなった歌人。 

そことなき霞の色にくれなりてちかき梢の花もわかれず     〈風雅204〉

ふりよわる折々空のうすひかりさてしも晴れぬ五月雨のころ   〈三十六番歌合〉

月を待つくらき(まがきの花のうへに露をあらはす宵の稲妻       〈風雅577〉

こほるかと空さへ見えて月のあたりむらむら白き雲もさむけし  〈風雅781

 

 

 

50

 

時ならぬ風や吹くらし桜花あはれ散りゆく夕暮の空 

安藤野雁(ぬかり)〈野雁集〉

 1810 - 1867               

  江戸末期の万葉の国学者・歌人。後半生、縄を帯に襤褸をまとい、酒をくらって放浪生活を送り、‘乞食野雁’と嘲られたという。‘野雁’という雅号は“世事に疎く、なにごとにもぬかる男”の意からとったのだそうだ。

あはれなる空の蛍のゆくへかな秋風たかく吹きやしぬらむ   〈野雁集〉

さぶしさは水底までにとほりけり夕日のすめる秋の砂川    〈野雁集〉

酔いみだれ花にねぶりし酒さめてさむしろ寒し春の夕風    〈野雁集〉

 

 

 

 

 

51

                    たま 

其子等に捕へられむと母が魂蛍と成りて夜を来たるらし

窪田空穂〈「土を眺めて」T7 ('18)

  M10('77) - S42('67)                                 

 三女を身籠った際の妊娠中毒で死んだ妻を偲んだうた。空穂は妻の死後1年ほどうたを詠むことができなかったが、その後の数か月で500首ちかくを詠んでこの追悼歌集を上梓したという。

逢ふ()なき妻にしあるをそのかみの処女(をとめ)となりて我を恋はしむ 「土を眺めて」 〉 

桜花ひとときに散るありさまを見てゐるごときおもひといはむ

〈「清明の節」S43 ('68)

四月七日午後の日広くまぶしかりゆれゆく如くゆれ来る如し      〃

 

 

 

52

  ご せ

後世は猶今生だにも願はざるわがふところにさくら来てちる

山川登美子〈『明星』掲載.M41 ('08)

 M12('79) - M42('09)                                     

 病床に臥し死を覚悟してのうた。このうたを含む14首が、登美子が「明星」に発表した最後のものとなった。翌年4月、結核により永眠する。上の句の諦念を受け、下の句が静かにとじられる。“さくら来てちる”というフレーズがうつくしい。だが、よくよく考えれば不思議な言い回しだ。理屈で言えば、さくらの花びらは散ってからふところに来るはず。来て・ちる、というのは逆ではないか、ということになる。では、“さくら散り来る”あるいは“さくら散りたり”ならよいだろうか。しかし、これでは上の句と下の句との関係が理におちてまったく平板でつまらないものになってしまう。ここはどうしても“さくら来てちる”でなければならない。けだし桜は恩寵として顕ち現われるからだ。そしてその末期を慰撫するかのように花びらは登美子のふところに降りかかるのだ。

そは夢かあらずまぼろし目をとぢて色うつくしき靄にまかれぬ 〈「恋衣」M38 ('05)

をみなへしをとこへし唯うらぶれて恨みあへるを京の秋に見し     〃

木屋街は()かげ祇園は花のかげ小雨に暮るゝ京やはらかき       〃

しら珠の数珠屋町(じゆずやまち)とはいづかたぞ中京(なかぎやう)こえて人に問はまし   〈『明星』M40 ('07)

をみなにて又も来む世ぞ生れまし花もなつかし月もなつかし  〈『明星』M39 ('06)

わが死なむ日にも斯く降れ京の山しら雪たかし黒谷の塔    〈『明星』M40 ('06)

 

 

 

53

 

ほのぼのとおのれ光りてながれたる蛍を殺すわが道くらし

斎藤茂吉〈「赤光」T2 ('13)

M15('82) - S28('53)                     

 「赤光」冒頭からの2首目。師事した伊藤佐千夫の死の知らせを聞いた際の連作“悲報来”のうちの一つ。3首目に

すべなきか蛍をころす手のひらに光つぶれてせんすべはなし

 蛍を身代わりとして殺すことで佐千夫を甦らせることができる、との思いにでも捕らわれたのだろうか。いや、そうではあるまい。自分の非力、不甲斐なさを恨んで、なにも知らぬげに“ほのぼのと”光る、より非力な蛍を殺すのである。そして、そんな無意味な殺生をすることにさらに絶望的な思いに駆られる。“わが道くらし”とはそのことである。だが、茂吉の非凡さは、こういった心の機微を、意図せぬままに的確にトレースしてしまうところにあるだろう。

めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり    〈「赤光」〉

とほき世のかりようびんがのわたくし()田螺(たにし)()はぬるきみづ恋ひにけり   〃

をさな妻こころに持ちてあり()れば赤小蜻蛉(あかこあきつ)()の飛ぶもかなしき      〃

むらさきの葡萄のたねはとほき世のアナクレオンの咽を塞ぎき  〈「寒雲」S15 ('40)

あかがねの色になりたるはげあたまかくの如くに生きのこりけり 〈「小園」S24 ('49)

かりがねも既にわたらずあまの原かぎりも知らに雪ふりみだる  〈「白き山」S24 ('49)

最上川逆白波(さかしらなみ)のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも       〃

 

 

 

54

 

雪の上に春の木の花散り匂ふすがしさにあらむわが死顔は

前田夕暮〈「夕暮遺歌集」S26 ('51)

M16(('83) - S26('51)                                   

 遺稿となった連作“わが死顔”のうちの一つ。

ともしびをかかげてみもる人々の瞳はそそげわが死に顔に

一枚の木の葉のやうに新しきさむしろにおくわが亡骸(なきがら)

 悲劇に自己陶酔するでもなく、飄逸・偽悪にはしるでもない、淡々とした詠みぶりが印象的だ。 

 「明星」の影響から自然主義、さらには昭和初期には自由律に、戦後は定型に回帰、と目まぐるしく作風が変遷した。その挙句のこのうたである。

春深し山には山の花咲きぬ人うらわかき母とはなりて      〈「哀楽」M41 ('08)

向日葵は金の油を身にあびてゆらりと高し日のちひささよ 〈「生くる日に」T3 ('14)

はだら雪はだらにかきて夕あかりわが児を()ふる檜葉(ひば)の木かげに  〈「深林」T5 ('16)

      洪水川(でみずがは)あからにごりてながれたり(つち)より虹の湧き立ちにけり  〈「原生林」T14 ('25)

かつてわが肉体を通過せし山々に辛夷(こぶし)花咲き春ならむとす      〈「夕暮遺歌集」〉

 

 

 

55 

       ひえ                    こ        し

照る月の冷さだかなるあかり戸に眼は凝らしつつ盲ひてゆくなり

北原白秋〈「黒檜」S15 ('40)

M18('85) - S17('42)                        

 晩年、白秋はしだいに失明していく。それさえも詩的な調べにしてやまないこの天性のうた魂!「黒檜」の‘序’に ―

…薄明二年有半、我がこの境涯に住して、僅かにこの風懐を遣る。もとより病苦と闘つて敢えて之に克たむとするにもあらず、幽暗を恃みて亦之を世に愬へむとにもあらず、ただ煙霞余情の裡、平生の和敬ひとへに我と我が好める道に終始したるのみ。…

 そして巻頭に上記のうたが掲げられる。

月読(つきよみ)(は光澄みつつ()()せりかく思ふ我や水の(ごと)かる    〈「黒檜」〉

我が眼はや今はたとへば食甚(しょくじん)に秒はつかなる月のごときか    〃

ほつねんと花に坐れる我が姿()しのままなる盲目(めしひ)とも見む  〈「牡丹の木」S18 ('43)

春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと()()の草に日の入る夕  〈「桐の花」T2 ('13)

君かへす朝の舗石(しきいし)さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ        〃 

病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし(ばた)の黄なる月の出    〃

わかきひのもののといきのそこここにあかきはなさくしづごころなし  〃

ひいやりと剃刀(かみそり)ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる初秋         〃

闇の夜に猫のうぶごゑ聴くものは金環(きんくわん)ほそきついたちの月  〈「雲母集」T4 ('15)

ニコライ堂この()揺りかへり鳴る鐘の大きあり小さきあり小さきあり大きあり

〈「黒檜」〉

 

 

  

56

    しぶき

秋、飛沫、岬の尖りあざやかにわが身刺せかし、旅をしぞ思ふ

若山牧水〈「死か芸術か」T1 ('12)

M18('85) - S3('28)                                     

 読点を表現手段としてこれほど積極的に用いたうたは、まだこの時期にあっては稀有だろう。与謝野鉄幹の「東西南北(M29)」(“野に生ふる、草にも物を、言はせばや。涙もあらむ、歌もあるらむ。”)、また石川啄木の「悲しき玩具(M45)」(“すつぽりと蒲団をかぶり、/足をちゞめ、/舌を出してみぬ、誰ともなしに。”)などの例はあるものの、文言の分りやすさを目的とした域を出ない。対してこの読点は、若き牧水の息遣いをビビッドにつたえてくる。ほかに次のような作も ―。

浪、浪、浪、沖に()る浪、岸の浪、やよ待てわれも山降りて行かむ  〈「死か芸術か」〉

       *

(かな)し山またかなし酔ひ痴れし恋のひとみにあめつちもなし  〈「海の声」M41 ('08)

白鳥(しらとり)(かな)しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ        〃

山を見き君よ添寝(そひね)の夢のうちに寂しかりけり見も知らぬ山       〃 

地震(なゐ)(す空はかすかに嵐して一山(いちざん)白き山ざくらかな          〃

幾山河越えさり行かば寂しさの()てなむ国ぞ今日(けふ)も旅ゆく        〃

海底(うなぞこ)に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり   〈「路上」M44 ('11)

しのびかに遊女が飼へるすず虫を殺してひとりかへる朝明け  〈「死か芸術か」 〉 

 

 

 

57

                 あきび                         みち

曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径

木下利玄 〈「みかんの木」T14 ('25)

M19('86) - T14('25)                                        

  利玄のうたにはあまり惹かれないのだが、これと次のうたは別だ。ただ見えたままに詠んだだけのようなうた。時間の止まったかのような情景。結核で死ぬ数か月前のうただという。

牡丹(くわ)は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ  〈「一路」T13 ('24)

(うすづ)ける彼岸秋陽に狐ばな赤々そまれりここはどこのみち    〈「みかんの木」〉

 

 

 

58

 

桜の花ちりぢりにしも
 わかれ行く 遠きひとり

 と 君もなりなむ

釋迢空〈「春のことぶれ」S5〉

M20('87) - S28('53)                  

  “卒業する人々に”と題された2首のうちの一つ。これはまったく卒業を祝ったりはなむけするようなうたではない。なにか怨みがましく独りごつような不気味さがないだろうか。

 そういえば、迢空の第一歌集「海やまのあひだ」の冒頭は、

この集を、まづ与へむと思ふ子あるに、

かの子らや、われに知られぬ妻とりて、生きのひそけさに わびつゝをゐむ

というのだった。富岡多恵子は「釋迢空ノート」で、次のように記す。

このはじめての歌集をまっ先に与えたい子がいる、その子は自分に内緒でひそかに妻をめとり、息を殺すようにしてさみしく暮らしているはずだ、というのだから、なんとなくその子に呪いをかけるような気分を感じ、読む者にもその呪いがかかってくる、いや、この歌集は一冊まるごと呪いの書であるのかもしれぬという不安な気にもさせるのである。

 迢空は教え子が教壇に上がる際も、一言一句狂いなく自分が口述したままに繰り返すことを求めた。また“「僕から背いていった者は皆不幸になるよ」と恐ろしい呪詛のような言葉を、深い自信をこめて言うことがあった。”と晩年の迢空の内弟子であった岡野弘彦は記している(「折口信夫の記」)。

 古人と交感する国文学者、地霊と通信する民俗学者という浮世離れした能力をもちながら、同時に俗世への執着・恋着もただならぬものがあった。そのアンビバレントな両面が迢空のなかではなんのギャップもなく繋がっているようだ。

人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどのかそけさ

〈「海やまのあひだ」T14 ('25)

(ムラ)山の松の()むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅びとの墓       〃

水底(ミナソコ)に、うつそみの面わ 沈透(シヅ)き見ゆ。来む世も、我の 寂しくあらむ    〃

愚痴蒙昧の民として 我を哭かしめよ。あまりに(ムゴ)く 死にしわが子ぞ

〈「倭をぐな」S30 ('55)

たゝかひに しゝむら焦げて死にし子を 思ひ羨む 日ごろとなりぬ    〃

耶蘇誕生会(タンジヤウヱ)の宵に こぞり来る(モノ)の声。少くも猫はわが(コブラ)()吸ふ        〃

基督の 真はだかにして血の(ハダヘ) 見つゝわらへり。雪の中より       〃

みつまたの花は咲きしか。静かなるゆふべに出でゝ 処女(ヲトメ)らは見よ     〃

ほのぼのと 炎のなかに女居て、しづけき(ヱマ)ひ消えゆかむとす       〃
いまははた 老いかゞまりて、誰よりもかれよりも 低き しはぶきをする 〃
人間を深く愛する神ありて もしもの言はゞ われの如けむ        〃

 うたわれる内容、ではなく、迢空の存在そのものが不気味に思えてならない。

 あまたの門下生を輩出したが、迢空の歌風を引き継いだ者、あるいはそのエピゴーネンさえもついに一人も現れえなかった。

 

 

 

59

          は な         ひと     しろは

咲きこもる桜花ふところゆ一ひらの白刃こぼれて夢さめにけり 

岡本かの子〈「浴身」T14 ('25)

M22('89) - S14('39)                              

 「中央公論」春季特集号掲載の求めに応じてつくられた138首のうちの一つ。かの子はそれを1週間で詠んだそうだ。その後上野公園で実際の桜を見て、嘔吐したという。

 一連は玉石混淆、物狂おしさとナルシシズムがない混ざった破天荒な読みぶり。

桜ばないのち一ぱいに咲くからに生命いのちをかけてわがながめたり    〈「欲身」〉

ひえびえと咲きたわみたる桜花はなのしたひえびえとせまる肉体の感じ   〃

せちに行けかし春は桜の樹下こしたみちかなしめりともせちに行けかし    〃

しんしんと家をめぐりて桜さくおぞけだちたり夜半よはにめざめて     〃

()桜花(さくらばな)ちりてくされりぬかるみに黒く腐れる椿つばきがほとり         〃

狂人のわれが見にける十年まへの真赤きさくら真黒きさくら      〃

ねむれねむれ子よが母がきちがひのむかし怖れし桜花はなあらぬ春    〃

          *

かの子かの子はや泣きやめて淋しげに添ひ臥す雛に子守歌せよ

〈「愛のなやみ」T7('18)

鶏頭はあまりに赤しよわが狂ふきざしにもあるかあまりに赤しよ  〈「欲身」〉

風もなきにざつくりと牡丹くづれたりざつくりくづるる時の至りて   〃

さくらばな(花體(くわたい))をを解きて人のふむこまかき砂利に交りけるかも

〈「わが最終歌集」S4 ('29)

年々にわが悲しみは深くしていよよ華やぐ命なりけり

〈「歌日記」S5 ('30) /(「老妓抄」) 〉

 

 

  

60

 

(はる)(みさき) (たび)のをはりの(かもめ)どり
()きつつ(とほ)くなりにけるかも

三好達治〈「測量船」S5 ('30)
M33('00) - S39('64)                      

 不朽の名詩集「測量船」の巻頭に載るうた。だが巻頭歌としてはいささか不可解でもある。なぜ初端から“旅のをはり”であり“遠くなりにけるかも”なのか。

 この頃、彼は勤めていた会社も倒産、婚約も破談という散々な情況だったらしい。詩人はここでこれまでの現実を遠景にフェイドアウトして、別天地に歩み出そうとしたのだろうか。この巻頭歌のあと、最初に掲げられる詩はあの「乳母車」である。

(とき)はたそがれ

(はは)よ (わたし)乳母車(うばぐるま)()

()きぬれる夕陽(ゆふひ)にむかつて

(りん)々と(わたし)乳母車(うばぐるま)()

 

 

 

61

         いちご       ほむらだ           わぎも

これやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹

吉野秀雄〈「寒蝉集」S22 ('47)

 M35('02 - S42('67)                              

 妻の死を間近にして詠まれたうた。同じ歌集に ―

真命(まいのち)の極みに堪へてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ

太白星あかぼし)(かげ)増すゆふべ富士が()の雪は蒼めり永遠(とは)(しづ)けさ

 

 


62

 

春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ

前川佐美雄〈「大和」S15 ('40)

 M36('03) - H2('90)                              

 “大和と思へ”は‘こそ’の係りを省いた已然形の結びではなく命令形だろう。“なにも見えないので大和と思う”ではおもしろくもない。(もっとも奈良時代の語法として ‘も…ねば’ が ‘…ないのに’ の意で使われていたという。〔秋立ちて幾日あらねばこの寝ぬる朝明の風は袂寒しも(万1555)〕とするなら已然形と読むのが妥当だろうか。)ここは、“なにも見えないのなら、いっそ大和だと思ってしまえ”というほどのニュアンスと取っておきたい。

 この時期には言い捨てるような詠みぶりの、いかにも前川らしい命令形が散見される。命令はほかならぬ自分自身に言っているのだろう。

いくまんの鼠族(そぞく)深夜(しんや)の街上をいまうつるなりあの音を聞け  〈「植物祭」S5 ('30)

野いばらの咲き匂ふ土のまがなしく生きものは皆そこを動くな 〈「大和」〉

 ダダイズム、モダニズム短歌の旗手として出発し、のちに日本浪漫派に近づく。その系列につながる者として塚本邦雄、前登志夫、山中智恵子らがいる、といえばそれだけでもただ者ではないと知れる。 

ゆく春は鳥の抜毛もかなしきに白く落としてはや飛び去りぬ  〈「大和」〉

いちまいの魚を()かして見る海は青いだけなる春のまさかり  〈「白鳳」S16 ('41)

夕焼けのにじむ白壁に声絶えてほろびうせたるものの爪あと  〈「捜神」S39 ('64)

 

 

 

63

                                       しふね

風葬ををはりきたりて嗚咽しき病みゐれば見る夢も執念き

生方たつゑ〈「火の系譜」S35 ('60)

M37('04) - H12('00)                            

 歌集を通覧していくと、写実的な生活詠がつづくかと思ううちに、なんとも不気味なうたが突如して現れる。歌語としてはあまり目にすることのない言葉 ―‘風葬’、 ‘樹骸’、‘洗滌’、‘酸性化’、‘放電’等が使われているのも異様だ。

たふれゆく樹骸の(うみ)にしぐれして(ひら)かれてゆく冬の音なり〈「白い風の中で」S32('57)
蜜房の妖しき花をつぶしきてわれはきしきしと手を洗滌す      〃
愛恤(あいじゅつ)もむなしかりけりと酸性化してをらむこの疾きつぶやき 〈「火の系譜」S35('60)

鯖裂けば手のなまくさき夜にしていづくにかひかる放電のそら     〃

木を(かじ)る音ききし夜も雪ふれり欠けし紋章も濡れつつあらむ  〈「花鈿」(S48('73)

(ひび)入りし土蔵に夕陽沁むるとき父の血よ母の血よ(りょう)を呼ぶこゑ    〃

 


 

64

                         やてん   も     ふら

母よ母よ息ふとぶととはきたまへ夜天は炎えて雪零すなり

坪野哲久〈「百花」S14 ('39)

M39('06) - S63('88)                        

 前後から推測すれば、帰郷して臨終の母を看取ったときのうたのようだ。生命と自然とがせめぎ合うかのような厳粛で幻想的な情景。

 昭和初期にプロレタリア短歌運動のリーダーとして活躍し、その第一歌集(「九月一日」)は発禁処分となった。戦時下には治安維持法違反で拘束されてもいる。  

冬星(ふゆぼし)のとがり青める光もてひとりうたげすいのちとがしめ   〈「桜」S15 ('40)

曼珠沙華のするどき(かたち)夢にみしうちくだかれて秋ゆきぬべき      〃  

秋ふかきけはひつめたく光るものこの辻うらの魚眼の青き      〃

秋のみづ素甕(すがめ)にあふれさいはひは(ひと)りのわれにきざすかなしも    〃

(はる)(しほ)のあらぶるきけば丘こゆる蝶のつばさもまだつよからず  〈「一樹」S22 ('47)

 

 


65

 

疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ

葛原妙子〈「朱霊」S45 ('60)

     M40('07) - S60('85)           

 孫の洗礼式に際してのうたであるとか、クリスチャンとなった長女との確執が絡んでいるということらしいが、そのような背景を知ったからといってもなんの役にもならない。そもそも、葛原妙子のうたは、あれこれ解釈をする以前に読む者の知見の箍を外させ、眠っていた感性を勝手に起動させてしまう。したがって、安易な解釈をも許してしまうような彼女の代表作といわれるうた ―

わがうたにわれの紋章いまだあらずたそがれのごとくかなしみきたる

〈「橙黄」S25('50)〉 

他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水   〈「朱霊」S45('70)

といったうたよりも、ただ“あれ”と指さすような、また、ただ“それが見える”といっているだけのようなうたこそが葛原妙子の真髄ではなかろうか。それは冒頭のうた、そして例えば次のようなうただ。

アイリスと(くは)し名をもつおほいなる風の進路は茫洋とみゆ   〈「縄文」*〉

* 未刊歌集。S25-S27の作が「葛原妙子歌集」S49に編集・収録。

ひともとの樹木の黒幹片よりに立ちゐる硝子まどの空間  〈「原牛」S35('60)
昼の視力まぶしむしばし 紫陽花の球に白き嬰児ゐる       〃
黒峠とふ峠ありにし あるひは日本の地図にはあらぬ       〃

晩夏光おとろへし夕 酢は立てり一本の壜の中にて    〈「葡萄木立」S38('63)〉

 前衛短歌の一方の旗手の塚本邦雄が、ありとあらゆる韻律の実験、技法の駆使、イメージの提示を展開したのに比して、葛原妙子は少なくとも意識的にはそのような手法が先走るような作歌はしなかったようにみえる***。(葛原は塚本を評価し、親交もあったようだが、自らは‘前衛’といわれるのを嫌っていたという。- 森岡貞香の談 [川野里子「幻想の重量」])結果的にそれまで誰も詠ったことがないような特異なうたが顕ち現れることになるのだけれど。

          *

ふたつまなこ暗く死にたる父のゐて生けりし父のわが手に無し 〈「橙黄」S25('50)

ヴィヴィアン・リーと鈴ふるごとき名をもてる手弱女の髪のなびくかたをしらず

〈「縄文」〉               

ガスタンク(をち)にしらみて沈みゆくひぐれ蒼白の薔薇を咲かしぬ 〈「飛行」S29('54)

うはしろみさくら咲きをり曇る日のさくらに銀の在處(ありか)おもほゆ 〈「薔薇窓」S53('78)

うたびとは蹌踉たりし さうらうとしづけきをゆるせしぞ むかし 〈「原牛」〉

毛髪を解かむ鏡にうつりゐてわが顔の原寸ある怖れ          〃

候鳥の片羽を截りて飼ふなれば寒き水の邊に散りたる羽毛       〃

キリストは靑の夜の人 (しゆ)を遺さざる靑の變化(へんげ)者           〃

口中に一粒の葡萄を潰したりすなはちわが目ふと暗きかも    〈「葡萄木立」〉

飲食(おんじき)ののちに立つなる空壜のしばしばは遠き泪のごとし        〃

白鳥は水上の啞者わがかつて白鳥の聲を聴きしことなし        〃

胎兒は勾玉なせる形して風吹く秋の日發眼せり            〃

遊蝶花(パンジー)の一(くわ()ぎりわれは暗む 遊蝶花はちひさきちひきき花なるを 〈「朱霊」〉

ほのぼのとましろきかなやよこたはるロトの娘は父を(いざな)ふ 〈「鷹の井戸」S52('77)

さねさし相模の台地山百合の一(くわ狂ひて萬の花狂ふ      〈「をがたま」**〉

** 未刊歌集。「鷹の井戸」以降のうたを「葛原妙子全歌集(S62)」に収めたもの。

(以下'23.12/16追記

 *** 川野里子によるインタビューで、高橋睦郎は次のように語っている。

  塚本邦雄さんにあれだけ大事にされて、『百珠百華』も書いてもらったのに、意に満たなかったんですよ。…葛原さんは塚本さんに疑問を持っていました。塚本さんが「五十首や百首というのは一晩で作れるから葛原さんも試みられてはいかがでしょうか」と言われたそうです。それに対して「私はせいぜい一晩苦しんで一首か二首でございます。それぐらいしか作れない私のような者と、一晩にらくらくと五十首百首おできになる方とおのずから歌の内容がちがうんではありませんか」とおっしゃった。〈短歌ムック『ねむらない樹』vol.7〉

  また、前出「幻想の重量」のなかには次のような森岡貞香の談がある。

…「森岡さん、今から私は書きます。あの四畳半の男どもを出しちゃって、あそこに籠ります。入ってきてはいやよ。」と言うから、私は一日だと思ってたの。そうしたら、一日たっても二日たっても出てこない。ご飯はその部屋に持ってこさせて、本人は一切出てこない。三日目にそうっと覗いてみたら、部屋の真ん中に派手な掻巻が一つあって、こんもりとしている。まるで蛇がとぐろを巻いているみたいなの。葛原さんの姿は見えない。死んでるんじゃないかってびっくりしたわねえ。「入るな」と言われていることを忘れちゃって、「あらっ、葛原さあん、妙子さあん」って大きな声で呼んだの。そうしたらその搔巻からヒョッと首をだし、「入っちゃダメって言ったでしょ」と恐い顔で言って、ざんばらの頭で、また搔巻をかぶってそのまま出てこなかったの。

 

 

 

66

        あゐ

あぢさゐの藍のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あかねさす昼

佐藤佐太郎〈「帰潮」S27 ('52) 

 M42('09) - S62('87)                                

 紫陽花は古代からあった花だが、あまりうたに詠まれてはいない。万葉集には2首(“言問はぬ木すら紫陽花諸弟(もろと)らが練りの村人(むらと)に欺かれけり”大伴家持 外)を見るのみ。古今から新古今までの勅撰集には1首も採られていないという。家持のうたでは、紫陽花は移り気で人を欺くものの喩えにさえされているのである。どうやら不人気な花だったらしい。だが、この佐太郎のうたは、この不遇な花に、あらためて静かな眼差しをそそぐ。枕詞を重ねることで、紫陽花がひっそりと時を紡いできたことを暗示する。枕詞が単なる字数合わせではないことがよくわかるのは、次項の齋藤史のうたでも。

白藤(しろふじ)の花にむらがる蜂の音あゆみさかりてその音はなし 〈「群丘」S37('62)

夕光(ゆうかげ)のなかにまぶしく花みちてしだれ桜は(かがやき)を垂る  〈「形影」S45('70)

 

 


67

            あきつ

ぬばたまの黒羽蜻蛉は水の上母に見えねば告ぐることなし

齋藤史〈「風に燃す」S42 ('67)

 M42('09) - H14('02)             

  史の母はこの頃失明した。“おかあさん、黒羽蜻蛉が…”と言いさして、口を噤む。よどみなく美しい韻律がかえって寂寥の気を深くする。‘ぬばたまの’は黒にかかる枕詞。これがなければこのうたは成立しない。黒羽蜻蛉は神様トンボとも呼ばれ、繊細に蝶のようにひらひらと儚げに飛ぶ。‘ぬばたまの’という一語によって、それがこの世ならぬ世界からの使者であることが知れる。そして史がなぜ口を噤んだのかも。
  白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう 〈「魚歌」S15('40)
  野に捨てた黒い手袋も起きあがり指指に黄な花咲かせ出す       〃
  たそがれの鼻唄よりも薔薇よりも悪事やさしく身に華やぎぬ      〃
  暴力のかくうつくしき世に棲みてひねもすうたふわが子守うた     〃
  春を(る白い弾道に飛び乗つて手など振つたがつひにかへらぬ     〃
  濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ        〃
  たふれたるけものの骨の朽ちる夜も呼吸(いきづまるばかり花散りつづく   〃
  羽破れ舞ひ立ちがたき朝の蛾を掃きて捨てつつ夏も終りぬ    〈「歴年」S18('43)
  白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば()を開きをり

〈「うたのゆくへ」S28('53)〉 

晩秋の音黒鍵を下りゆきしだいに尾部にいたる蛇の死  〈「風に燃す」

かぎろふは雪の白妙(しらたへ)また鬼火・現世(うつしよ)過ぎてゆけるものたち    〃

きさらぎのきらめくゆきを(かがふ)りて雪の(あやかし)・われの白髪(しらかみ)    〃   

かなしみの遠景に今も雪降るに(つば)下げてゆくわが夏帽子 〈「ひたくれなゐ」S51('76)

 

 


68

                     さ

ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

宮柊二〈「山西省」S24 ('49)

T1('12) - S61('86)                     

 一兵卒としての従軍のさまを詠んだ「山西省」に収められたうた。宮柊二はこの体験を、戦地からの帰還後しばらくは発表することはできなかったという。

 詞書 “部隊は挺身隊。敵は避けてひたすら進入を心がけよ。銃は絶対に射つなと命令にあり”

こゑあげて哭けば汾河の河音の(またく絶えたる霜夜風音(しもよかざおと    〈「山西省」〉

 宮柊二の死後、山西省を訪れた妻・宮英子は次のうたを詠んだ。

亡き柊二あらはれ出でよ兵なりし君がいくたび越えし滹沱河(こだがは〈「ゑそらごと」H3('91)

 

 


69

 

火の匂ひ、怒りと擦れあふ束の間の冬ふかくして少年期果つ

浜田到〈「架橋」S44 ('69)

 T7('18) - S43('68)                       

 生前、浜田を称揚した塚本邦雄は、死後13年を経てからその評価を修正した。すなわち、何首かを引きつつ浜田の破調は‘先天的に短歌的韻律音痴’だったのではないか、さらに自作を磨き矯めリファインすることをしなかったのではないかと記す。さらに次のように ―。 

作者はただの一度でもこの一首を口遊(くちずさ)んでみただらうか。否、彼は聲に出して誦すことが怖かつたに相違ない。歌ひつ放し、書き捨てのままで、恐る恐る公表し、あとは耳と眼に蓋をして顫へてゐたのだ。さういふ發作的な制作であつても、稀には秀作が生れる。否否、濱田到は、發作的な、オートマティックな制作を意識的にすることによつて、千に一つのかねあひで、十首に一首の、戦慄的な絶唱を創つてゐた。(『晩熟未遂』-現代歌人文庫「浜田到歌集」所収)

 すなわち、次のようなうたがそれにあたるだろうか。

刻々に睫毛(しべ)なす少女の(せい)、夏ゆくと脈こめかみにうつ       〈「架橋」〉

硝子街に睫毛睫毛のまばたけりこのままにして霜は降りこよ        〃

ふとわれの掌さへとり落とす如き夕刻に高き架橋をわたりはじめぬ     〃

孤り聴く〈北〉てふ言葉としつきの繁みの中に母のごとしも        〃

 

 


70

                                   あけ

さらば夜の怒りのあとのふくだみし魂魄のごと暁のあぢさゐ

安永蕗子〈「蝶紋」S52 ('77)

T9('20) -  H24('12)                          

  歌人にして書家。安永蕗子のうたに糠味噌くさい生活の片鱗や、うだうだとした世迷言が詠まれることはない。全歌集五千余首どこを見ても端然とした佇まいは崩れない。広げられた紙にどのような墨蹟をデザインするか、その同じ心構えで三十一文字に対峙しているかのようだ。かといって無機質で取り澄ましたようなつまらなさはまったくなく、選ばれる歌語の切れ味も見事だ。こんな歌人はほかには見当たらない。闘病のため登場したのが三十代と遅く、馬場あき子は‘新古今時代に俊成卿女が現れたときもさこそと思わせた’と語っている。

紫の葡萄を運ぶ舟にして夜を風説のごとく発ちゆく     〈「魚愁」S37('62)
水ひびく冬河の橋わたり来て星のありどを空に失ふ        〃

何ものの声到るとも思はぬに星に向き北に向き耳冴ゆる      〃
街上にさるびあ赤きひとところ処刑のごとき広場見えゐる  〈「草炎」S45('70)
寂しみて()()(とり)見れば鳥もまた()()が悪相のなかに眼つむる  〈「蝶紋」(S52('77)

谺して一打の斧も()むゆふべあな寂しもよ詩歌のゆくへ      〃
ひとの世に混り来てなほうつくしき無紋の蝶が路次に入りゆく   〃
しばしばもわが目愉しむ白昼の天の瑕瑾のごとき半月 〈「くれなゐぞよし」S62('87)
天命と非命のあはひ何ほどと思ふまぎれに跳ぶつばくらめ  〈「冬麗」H2('90)
花咲ける合歓の並木の下急ぐ欺瞞華鬘(けまん)の淡きうす紅        〃
一命を思ふにあらず存命を隠して繁る草恋ふるなり        〃

 

71

 

冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか

中城ふみ子〈「乳房喪失」S29 ('54)

T11('22) - S29('54)                                     

 中井英夫に見出され、川端康成が序文を書く。またのちには映画化もされるなど、センセーショナルな話題を集めた。乳癌によって31歳で死ぬという、‘無惨’な現実だったが、中城はその現実を見据えつつそれに自己陶酔していたかのようでもある。自己演出するまでもなく‘無惨’なのに、演出した自画像がはからずも現実と乖離することなく重なり合ったところから、このうたの甘くも荒涼とした調べが聴こえてくる。

出奔せし夫が住むといふ四国目とづれば不思議に美しき島よ   〈「乳房喪失」〉

音たかく夜空に花火うち開きわれは隈なく奪はれてゐる        〃

 

 


72

 

人妻の乳首の紅のにごりゆく夜のさみだれの寝ぐるしさかな

吉岡実〈「魚藍」S34 ('59)

T8('19) - H2('90)                         

 詩人 吉岡実が二十代前後に詠んだうた。四十歳での結婚を機に若い日のうたを小冊子にして親しい知人に配ったという。

手紙かく少女の睫毛ふるふ夜壁に金魚の影しづかなり    〈「魚藍」〉

 

 

 

73

 

五月來る硝子のかなた森閑と嬰兒みなころされたるみどり

塚本邦雄〈「緑色研究」S40 ('65)

                                                                                                        T9('20) - H17('05)                   

 その名も「緑色研究」のなかのこの歌。“みなころ/されたるみどり”という句跨りの妙や、緑の縁語を連ねた惨酷なイメージの演出がいかにも塚本邦雄だ。新約聖書のヘロデ王の嬰児虐殺の衒学を踏まえずとも、鮮烈な光景がまざまざと開示される。緑の縁語は、‘五月’、‘森閑’、‘嬰児(=みどりご)’だが、もう一つ、‘硝子’もそこに引き寄せられるのではないか。すなわち、ガラスの断面の緑色。割れたときなどはことさら底深い暗緑色が光る。みなごろしの凶器は、この割れたガラスによってなされたのではないかと、つい深読みしたくなる。塚本は「緑色研究」を“自歌自註(??)”した「緑珠玲瓏館」のなかで、“それは幼時から私の関心を引いてやまぬ色であつた”と緑色への偏愛を語っている。

 (なお、初句にルビは振られていないが、“サツキキタル”であって、間違っても“ゴガツクル”ではあるまい。)

海の泡、泡に映れるひるの月にやはらかき木のいかりをおろす〈「水葬物語」S26('51)

五月祭の汗の靑年 病むわれは火のごとき孤獨もちてへだたる〈「装飾樂句」S31('56)

紅海を乾したる奇蹟信ぜむに瞑れば瞼の裏の血が見ゆ  〈「驟雨修辭學」S49('74)*

* S27-31の未発表作品として後に上梓した歌集。

死に絶えしうから數へて睡眠のはじめ明るき夏のふるさと     〃

少女死するまで炎天の縄跳びのみづからの圓驅けぬけられぬ〈「日本人霊歌」S33('58)

ロミオ洋品店春服の靑年像下半身なし***さらば靑春      〃

萬緑の中游ぐかにかへりきてここに左右の頬()たるる愛   〈「水銀傳説」S36('61)

風太郎おごそかに鹽かつぎ去()()(ひぐらし)のその日ぐらしのこころ 〈「緑色研究」S40('65)

()()一穗(いつすゐ)の錐買ひしかばかたへなる一茎(いつけいのやはらかき妹        〃

壯年のなみだはみだりがはしきを酢の壜の縦ひとすぢのきず 〈「感幻樂」S44('69)〉 

戀や戀 われらにむごき砂婚(さこん)てふ中空の星なべて火の砂      〃

はつなつを()鱁鮧(うるか)ふふめば暗澹と味領(みりやうにひびくうすき血のあぢ    〃

馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ   〃 

桔梗(にが)しこのにがみもて滿たしめむ男の世界(また)く昏れたり  〈「星餐圖」S46('71)

わたつみのたてがみ荒るる神無月燭翳るごと吾を睡らしめ〈「靑き菊の主題」S48('73)

水の上に死の鶯の(まみとぢて恥うつくしき日日は過ぎたり      〃

百合科病院、()天南星(てんなんしやう)科醫師、茄子科看護婦、六腑夜ひらくてふ    〃

ヘリオガバルスたましひの留守 狙はれて水中の馬臀かがやけよ  〃

歌なすはこころの疫病(えやみ)遊星にきぞ群靑の水涸れにけり   〈「されど遊星」S50('75)

あれは水陽炎(みづかげろふ)のひびきかサンマルコ寺院より神立ち去る音か  〈「閑雅空間」S52('77)

玉蟲買ひて吾子(あこ)は晩夏のちまた行くわれにも一つ〈死〉を買ひ戻れ

〈「天變の書」S54('79)

歌ふべきか水無月すでにはかなくて蒼朮(さうじゆつ)の香のそのあさごろも  〈「豹變」S59('84)

詩歌變ともいふべき豫感夜の秋の水中すいちゆうに水奔るを視たり     〈「詩歌變S61('86)

天使魚の瑠璃のしかばねさるにても彼奴きやつより先に死んでたまるか   

ながらふることの不思議を秋風のゆふぐれうろこぐもの逆鱗げきりん  〈「不變律」S63('88)

遠ざかりつつちかづける死ぞ春の霰くらひてたまゆらたのし   〈「黄金律」H3('91)

秋風しうふうさるる鐡扉てつぴぢりぢりと晩年の父がわれにちかづく   〈「魔王」H5('93)

(以下21 .8/11追記)

 掲載歌の初句の読みは‘サツキキタル’に違いない、と書き、ずっとそうこだわりつづけてもきたのだが、ふと疑念も生じてきた。‘サツキ’を陰暦5月とすると陽暦では6月、つまり梅雨時にあたる。それではこのうたが示す‘みどり’の世界にふさわしくないのではないか。この殺戮はじめじめした季節ではなく、乾いた薄情の空気のなかでおこなわれるはずだ。(五月-サツキ-みどりという歌手もいたけれど !?)さらに俳句の季語に‘五月来る(ゴガツクル)’というのがある。塚本は俳句にも造詣は深く作句もしていたから、この季語が念頭にあったとしてもふしぎはない。‘ゴガツクル’なら字余りもなくなって重々しさは薄れ、より初期の作風に近づく印象だ。

 


74

 

ごろすけほう心ほほけてごろすけほうしんじついとしいごろすけほう

岡野弘彦〈「飛天」H3 ('91)

T13('24) -                                      

 梟(ごろすけ)が鳴くと心が乱れ愛しさの思いがつのる、というだけのうた。“ごろすけほう”の3たびのリフレインから、“しんじついとしい”思いがいやがうえにも募ってくる。

 なお古泉千樫に次のうたが ― 。あるいはこれが本歌か。

ほろすけほう五こゑ六声郊外の夜霧に鳴きて又鳴かずけり

  〈「屋上の土」S3('28)

すさまじくひと木の桜ふぶくゆゑ身はひゑびゑとなりて立ちをり

〈「滄浪歌」S47 ('72)

      白じろと散りくる花を身に浴びて佇ちをりわれは救わるるなし

〈「海のまほろば」S53('78)

散り()きて墓をおほへる桜の花なきたましひも出でてあそべよ   〈「飛天」〉

 

 

           

75

 

草萌えろ、木の芽も萌えろ、すんすんと春あけぼのの摩羅のさやけさ

前登志夫〈「樹下集」S62 ('87)

T15('26) - H20('08)                             

 自らを‘山人’と称した人。もはや自らが草木と一体化してしまったかのようだ。これも‘春情’というものか。草木の哄笑が聞こえてくる。

この父が鬼にかへらむ峠まで落暉(らっき)の坂を背負われてゆけ   〈「霊異記」S47 ('72)

さくら咲くその花影の水に研ぐ夢やはらかし(あした)の斧は        〃

狂ふべきときに狂はず過ぎたりとふりかへりざま夏花揺るる      〃

山の樹に白き花咲きをみなごの生まれ来につる、ほとぞかなしき

〈「縄文記」S52 ('77)〉    

 

 

 

76

 

抱くとき髪に湿りののこりいて美しかりし野の雨を言う

岡井隆〈「斉唱」S31 ('56)

S3('28) - R2('20)              

 一首をもってその歌人の全体像を語るということは無理でも、その作風が端的に表れたという意味での代表作を掲げる、ということなら許されるのではないか。貫之にしろ、定家にしろ、茂吉にしろ、塚本邦雄にしろ、複数の候補が挙がって煩悶しそうだが、まあ、独善的ながらできそうな気がする。晶子や啄木ならさらに可能だろう。

 若い頃の作が、その歌人の代表作となった例は枚挙にいとまがない。つまりそれだけ自分を更新していくのは困難だということか。特に”青春の文学”などといわれる短歌にあっては。

 だが、岡井隆の‘代表作’を選び出すのはほとんど不可能である。歌集だけでも厖大だが、それよりも、作風のみならず身の処し方そのものも目まぐるしく変遷した。といって軽々に身を翻したわけでもなく、いわばそのつど重い足音を響かせながら、次の瞬間にはその場にはもういない、という人だ。

 掲出歌は、まだアララギの影響下にあった最初期のうた。もちろんもっとも彼らしいというものではない。

夜の森は(よる)の樹木に満ちたりと思ほえぬまで稲妻を吐く

〈「土地よ、痛みを負え」S36('61)

天皇を泣きて走れる夜の道の草いきれこそ()ちくるものを   〈「眼底紀行」S42('67)

生きがたきこの世のはてに桃植ゑて死も()かうせむそのはなざかり

〈「鵞卵亭」S50('75)〉       

父よ父よ世界が見えぬさ庭なる花くきやかに見ゆといふ(ひる)

〈「天河庭園集」S53('78)〉 

歳月はさぶしき(ちち)(わか)頒てども()た春は来ぬ花をかかげて 〈「歳月の贈物」S53('78)

(ドア)の向うにぎつしりと明日 扉のこちらにぎつしりと今日、Good(ドアよ) nidht(、おや)my(すみ) door!

 〈「蒼穹(おおぞら)の蜜」H2('90)

冬蛍ふゆぼたる飼う沼までは(俺たちだ)ほそいあぶない橋をわたつて

「神の仕事場」H6('94)

叱つ叱つしゆつしゆつしゆわはらむまでしゆわはろむ失語の人よしゆわひるなゆめ

               〃        

わが生に歌ありし罪、ぢやというて罪の雫は甘い、意外に  〈「夢と同じもの」H8('96)

革命にむかふ青春のあをい花ほんとに咲いてゐたんだってば

〈「大洪水の前の晴天」H10('98)

食卓のむかうは若き妻の川ふしぎな魚の釣り上げらるる

馴鹿(トナカイ)時代今か来向かふ」H16('04)〉

   

  

 

77

 

われのおにおとろえはててかなしけれおんなとなりていとをつむげり

馬場あき子〈「飛花抄」S47 ('69)

 S3('28) -                        

 馬場あき子には他にいくつもの名歌があるが、あえてこれを採りたい。「鬼の研究」で知られる馬場だが、この歌に込められた思いは、通奏底音のように次のような代表作にも響いている。

さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり   〈「桜花伝承」S52('77)

夭死せし母のほほえみ空にみちわれに尾花の髪白みそむ      〃
夜半さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん

〈「雪鬼華麗」S54('79)〉 

      * 

ああふくしま吾れを迎へてくれるでもなけれど火を噴くやうなもみぢば

〈「あかゑあをゑ」H25('13)

 

 

 

78

       かけを き

音さやに懸緒截られし子の立てばはろけく遠しかの如月は

美智子妃〈「瀬音」H9 ('97 )

S9('34) -                                       

 天皇となるべく生まれた子は、臣下の家で育てられるのが慣例だった。昭和天皇は継宮(明仁上皇)が生まれたとき、自らのもとで育てることを望んだが周囲の反対でかなわなかったという。これに反して美智子妃(当時)は初めて浩宮(徳仁天皇)を自らの手で育てた。

 このうたは浩宮の加冠の儀(成年式)の際のもの。成年の証しとして被せられた冠の懸緒を顎で結び、余った両端を切り落とすのがしきたりだそうだ。このとき、美智子妃はこれを寿ぐ長歌をつくっており、その反歌がこのうたである。

 長歌は古式に則ってめでたくうたいあげられているが、この反歌のこころはかならずしもそれだけのものではないように思う。

 ここまであたうかぎり一般の子のようにして育ててきたが、もとより人でありながら象徴という不可思議な存在、天皇になる運命が定められた子である。成年となればいよいよ‘普通の’人生は難いものになっていくに違いない。はたして、儀式に臨む子への‘痛ましさ’の思いがこのうたには図らずも込められてはいまいか。“懸緒截られし”といい、“子の立てば”と言う。静まりかえった空間にささげられた‘贄’のようにして立つ子。この宿命はいかようにも変えることはできない。もはやあの、ただ幸福だった2月(浩宮の誕生月)は”はろけく遠”いものとなった…。

 同じ年、ひと月ほど前の歌会始に‘桜’のお題で詠まれたうた ―

風ふけば幼き吾子(わこ)を玉ゆらに明るくへだつ桜ふぶきは

 幼かった子は、桜ふぶきのなかに霞んで、もはや自分の手の及ぶことのない遠いひとのようではないか。眩い陽の光が桜の花びらを輝かせるので、かえってその姿を“明るくへだ”てるのだ。あたかも一瞬の予兆のようにして。

帰り来るを立ちて待てるに()(とき)のなく岸とふ文字を歳時記に見ず   〈H24歌会始〉

いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏(あうら)思へばかなし    〈H17 宮内庁HP〉

少年の声にものいふ子となりてほのかに土の香も持ちかへる    〈「瀬音」〉

()(もろ)の手を空に開きて花吹雪とらへむとする子も春に舞ふ         〃

にひ草の道にとまどふしばらくをみ声れんげうの花咲くあたり      〃

いざよひの月はさぶしゑ()(もち)の夜をきそに過ぐしてためらひ出づる     〃

彼岸花咲ける(あはひ)の道をゆく行き極まれば母に会ふらし            〃

()(まき)の道銀輪の少女ふり返りもの言へど笑ふ声のみ聞こゆ      〈H17 宮内庁HP〉

 

 

 
79

 

夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず

(シ)                    寺山修司〈「空には本」S33('58)

S10('35) - S58('83)                 

 寺山の美質がその抒情性にあることは紛れもない。初期の短歌・俳句にその特長は眩く発揮されていた。だが、一転「田園に死す」あたりから彼の韜晦がはじまる。短歌だけでなく、演劇などでもその前衛性は時代の先頭を走っていたかのように見えるが、はたしてそれは彼の本質だったのか。同時期を疾走した唐十郎の状況劇場の得体の知れなさなどに比べれば、寺山のパフォーマンスはどこか頭でっかちで底が透けて見えるような気がしてならなかった。おそらく彼は自分の少年の抒情性を恥じらっていたのだ。それが自分の本質であるだけに、なおさら。そこで、後期の作品群がコントロールされた自己演出の所産であるように、初期のものもまたあたかもそうであったかのように、後付けながら装ってその抒情性を覆い隠してしまいたかったのではなかろうか。それが成功したようにはとても思えないけれども。

 海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり  〈「空には本」〉

そら豆の殻一せいに鳴る夕母につながるわれのソネット       〃

一粒の向日葵の種まきしのみ荒野をわれの処女地と呼びき      〃

うしろ手に春の嵐のドアとざし青年は已にけだものくさき      〃

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや    〃

一つかみほど()苜蓿(うまごやし)うつる水青年の胸は縦に拭くべし     〈「血と麦」S37('62)

一本の樫の木やさしそのなかに血は立ったまま眠れるものを     〃

売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき 〈「田園に死す」S40('65)

人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ

〈「テーブルの上の荒野」S46('71)

 

 


80

 

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

小野茂樹〈「羊雲離散」S43 ('68)

 S11('36) - S45('70)                 

 王朝時代、その歌人の名をたからしめたうたの語句をとって「沖の石の讃岐」(わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわくまもなし)、「若草の宮内卿」(うすくこき野辺のみどりの若草に跡までみゆる雪のむら消え)などの異名がつけられたという。さしずめ現代なら「あの夏の茂樹」といったところだろうか。戦後の短歌史を語るうえで、まずこの歌が外されることはないのではないか。しかし、あまりにこれが突出して他のうたが顧みられなくなったかのようにさえみえるのは、この夭逝した歌人にとって幸運なことであったとは思えない。

 ところで、このうたの魅力として “数かぎりなき” と “たつた一つ” という相矛盾する表情というのが不思議で面白い、と読む評が散見されるが、誤読だろう。これは “君が何度も何度も見せてくれた、あの無二の魅力的な表情(をまた見せてくれ)” というほどのことだ。格別不思議でもないものになるが、それでもこのうたの魅力が損なわれることはあるまい。

ひつじ雲それぞれが照りと陰をもち西よりわれの胸に連なる 〈「羊雲離散」〉

砂に棲むものあり砂に音たててゆたかなる潮沖を過ぎゆく        〃

母は死をわれは異なる死をおもひやさしき花の素描を仰ぐ  〈「黄金記憶」S46('71)

 

 

 

81

 

花びらはくれなゐうすく咲き満ちてこずゑの重さはかりがたしも

小中英之〈「わがからんどりえ」S54 ('79)

S12('37) - H13('01)                                                 

 たわわに咲いた桜は重たげにも見えるけれど、散ればはらはらと軽やかに舞う。この世のものとも思えない満開の桜。

 このうたの‘本歌’は、葛原妙子の次のうただろうが、換骨奪胎、まったく別の趣の作となった。

うすらなる空気の中に実りゐる葡萄の重さはかりがたしも 〈「葡萄木立」〉

 “じつは、小中英之は、かれが江差高校の生徒だったころ、ふと知合ってから、私にとっては家族の一員同様の、云うなればたった一人の内弟子である。(「わがからんどりえ」巻末解説)”  安藤次男がこのように記した歌人である。

蛍田てふ駅に降りたち一分の()(かん)にみたざる虹とあひたり    〈「翼鏡」S56('81)

少年の日よりほろほろ秋ありて葡萄峠を恋ひつつ越えず       〃

今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅     〃

 

 

 

82

 

夏の女のそりと坂に立っていて肉透けるまで人恋うらしき

佐々木幸綱〈「群黎」S45 ('70)

 S13('38) -                                         

 “夏の女”、“のそり”、“坂”、“肉透ける”、“人恋う”。言葉が響き合って、なんともいえない気怠い濃密な情景を描き出す。これらの語のどれ一つが欠けても、この世界は消滅してしまう。

なめらかな肌だったっけ若草の妻ときめてたかもしれぬ()は  〈「群黎」

泣くおまえ(いだ)けば髪に降る雪のこんこんとわが(かいな)に眠れ   〈「夏の鏡」S51('76)

抱き合って動かぬ男女ゆっくりと夕波は立つ立ちて崩るる  〈「火を運ぶ」S54('79)

 

 


83

                                ゆふづつ

少年に戻れとならば戻れるは微罪のごとし夕星見つつ

春日井建〈「井泉」H14 ('02)

S13('38) - H16('04)            

 定家になぞらえた三島由紀夫の「未青年」序文によって一躍時代の寵児になり、あまたの追従者を生んだ。

大空の斬首ののちの静もりか()()()ちし日輪がのこすむらさき  〈「未青年」S35('60)
童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり       〃

 たしかにこの2首はいまも鮮烈な印象を残すが、超絶技巧の限りを尽くした定家に、春日井を比べるのは無理があろう。ただ背徳的な題材を詠っていたのが三島の趣味にかなっただけのことではないか。当時斬新に思えたうたも、そのおおくが今日から見ればむしろ時代を感じさせる。いまもなお輝きを失わない寺山修司の初期作品のようにはいかない。そのことを春日井自身いつか自覚したに違いない。一旦短歌と訣別したのもその思いがあったからだろう。復帰後も“「未青年」の春日井建”というキャッチフレーズはついに最後までついてまわった。“戻れとならば戻れるは”という吐き捨てるような物言いは、その苦さを吐露しているようだ。その苦みを含んだまま、2年後、春日井は病により生涯を閉じた。

 

 


84

 

こぼれたる鼻血ひらきて花となるわが青年期終りゆくかな

玉井清弘〈「久露」S51('76)

s15('40) -                                     

 結核の喀血なら美しくもあるだろうが、鼻血ではそうもいくまい。‘はな’血が‘はな’となる? そんな駄洒落のような語呂合わせにふと気がついて、そのこぼれた鼻血を見つめながら自嘲めいた苦笑を洩らす。鼻血は所詮鼻血じゃないか。それがまださまになるのはせいぜい若い季節までだ。しかし、そのことがわかった時には、もはや自分は青年ではなくなっているのだ。

つる草はほろびのはてにあかあかと虚空に一つ実を育てたり   〈「風筝」S61('86)

ゆうぐれの水みちきたるあまつそらよじりひらけるゆうがおの白      〃

 

 

85

 

水風呂にみずみちたればとっぷりとくれてうたえるただ麦畑

村木道彦〈「天唇」S49('74)

S17('42)  -             

耳のみがふき遺されているわれにきれぎれやなんの鐘ぞきこゆる  〈「天唇」〉

秋いたるおもいさみしくみずにあろうくちびるの熱 口中の熱      〃

あわあわといちめんすけてきしゆえにひのくれがたをわれは淫らなり   〃

黄のはなのさきていたるを せいねんのゆからあがりしあとの夕闇    〃

 これらのうたについての証言 ―。”村木道彦が次の歌を発表した四十年にはまだ慶応の学生だったが、僅かな数でありながら…その新しい作風は、たちまち同世代の間に波紋をひろげた。(中井英夫「黒衣の短歌史」)” また、”早稲田短歌会で、当時村木の人気は寺山修司のそれをはるかにしのいだと佐々木幸綱は口惜しげに書いた。村木が十九歳のときから注目していた藤田武は「村木道彦天才論」を折にふれ口にした(関口夏央「現代短歌 そのこころみ」)”。

 自分のことにしていえば、村木道彦を知ったのはリアルタイムではもちろんなくそれから10年近く後だったが、それでもそのうたは新鮮に響いた。いや、今でもこれらのうたの鮮度は失われていないのではないか。

 だが、村木はこののち、徐々に精彩を欠いていく。やがて彼は35歳でとうとう一旦作歌をあきらめている。なぜ彼は挫折したのか。短歌が青春の営みだから、といってしまえば話は簡単だ。通観すれば、村木道彦のうたには上記のうたも含めて、ある特有の傾向がある。以下、「天唇」から(おそらく)作歌順にならべてみる。

めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子

やまの木のはざまのそらをみてきたるしるこをたべているぼくのめは

青春はまこときずつきやすくあれ ガーゼマスクの(くち)かわけるを

スペアミント・ガムを噛みつつわかものがセックスというときのはやくち

気がくるうほどさびしきに桜湯や (くち)にちいさき花は寄りたり

ふかづめの手をポケットにづんといれ みづのしたたるやうなゆふぐれ

あつき湯にかゆがりながらしずむとき忘れていたることのかずかず

 やがて、うたはしだいに閉塞感を帯びはじめる。

婬逸とくらきつかれや静電気帯びつつぬげるテトロンジャケツ

セックスのおとずれというはつね俄か にがきかおりのチョコレート噛み

口臭はわれかとおもいはつなつの電車こみあうなかのひとりよ

脱糞ののち出てくる戸外にはすさまじきかな夕あかね()

よりどころなくて疲れしいちにちのおわりにひどくさとき耳もつ

疲れたるまなこもてみよガラス戸の水一滴のなかのゆうぐれ

淫猥のおもいといえばつぎつぎにそらの真蒼(まさお)にこそうまるらめ

寿司屋にてすしをつまみてきたるゆえややなまぐさきなつのよのゆび

 これらのうたに共通するのは、眼、唇、耳、指などの身体、あるいは性欲や湯浴みしたときなどの身体感覚がうたわれていることである。もちろん、そのようなうたを恣意的にピックアップしたわけだが、それにしてもその傾向の頻度はきわめて高い。また、良くも悪くも印象深いのはそんなうただ。それらは客観視されるわけでもなく、ナルシスティックに自己撞着したまま語られている。

 若ければその傲慢が一種の爽やかさにも通じるだろう。だが、いつまでもそこに停滞すれば自己模倣の袋小路に陥り、澱がよどむ。口臭、脱糞、生臭さなどには実に端的にそれが表われている。

 ’60年から70年のはざまにあって、ノンポリティカルな立ち位置から、身近な、しかし斬新な視点を提示したが、ついに村木は自分自身の輪から脱け出すことができなかった。逆編年体で編まれた「天唇」の最終ページに載るうた、すなわち彼のもっとも早い時期と思われるのは次のうたである。

恐るべきもの触るごと撫でてみつ十九歳のわれの手脚を

 恐るべきものであったはずのものは、挙句の果ては饐えて自分自身にまとわりつくものになりさがった。 

 ほとんど一瞬のあの光芒を、奇跡的な恩寵と見るほかはあるまい。

 

 

 

86

 

逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと

河野裕子〈「森のやうに獣のやうに」S47('72)

S21('46) - H22('10)                                                        

 6・7・5・9・7音の破調。河野裕子のデビュー歌集の冒頭に置かれた10代の作。さらにもうひとつの人口に膾炙しているうた ―

たとへば君 ガサッと落ち葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか

〈「森のやうに獣のやうに」〉

 これも6・7・6・8・8と字余りだらけである。だが、この2首とも、あえて違和感を強調したようなぎくしゃくした破調とは感じられない。独特の勢いのままに詠みくだせば、破調であることすら意識されないくらいだ。長男の歌人永田淳は「河野には独特の内在律のようなリズム感があって…千数百年にわたって保ち続けた「型」の磁場のなかにあれば短歌たりえる、そう考えて作歌していたのではないか…」と記している(「河野裕子」)。たしかにこんな天性の芸は河野裕子にしかできないだろう。なお、永田は、この歌がガラス玉を覗いて倒立像が見えたという河野の高校時代の詩が下敷きになったと明かしているが、それに拘泥する筋合いはない。ガラス玉云々はここにはまったく見えないので、あくまでも“一度きりのあの夏”の情景を思い描くべきだ。うたは、おまへがおれ(河野)を眺めてた、とも取れるし、相手の視点に立っておまへ(河野)がおれを眺めてた、とも取れる。(永田は「女性が自身を「おれ」と言い、おそらく男性を「おまへ」と呼んでいる…」と書くが―。)どちらか、というより、どちらでもあるのではないか。相互に交差する視線。逆立ちそのものがその仕掛けの道具立てなのではなかろうか。

耳底にゆふべの水のひかるごと明日は死ぬべき蝉を聴きしか 〈「ひるがほ」S51('76)

たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり  〈「桜森」S55('80)

むかしむかし涼しき音をよろこびし時計の下に宵のうたた寝 〈「はやりを」S59('84)

さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見てをり〈「歩く」H13('01)

あをぞらがぞろぞろ身体に入り来てそら見ろ家中いへぢゆうあをぞらだらけ〈「母系」H20('08)

八月に私は死ぬのか朝夕のわかちもわかぬ蝉の声降る    〈「蝉声」H23('11)

 “八月に ― ”は病により息をひきとる前日のうただという。


87

 

あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年

永田和宏〈「メビウスの地平」S50 ('75)

 S22('47) -                                                          

 直線距離にすればすぐそこなのに、実際に行こうとすればやたらに回りくどい迂路を経なければならない。ばかやろう、ぐずぐずしやがって、まったくガキだな、おれってやつは…。学生結婚した河野裕子とのことを謳ったのか、さあ、どうだろう。そんな下世話な想像をしてしまうのも、若き河野に次のようなうたがあるからだ。

ブラウスの中まで明るき初夏の陽にけぶれるごときわが乳房あり

〈「森のやうに獣のやうに」〉

今刈りし朝草のやうな匂ひして寄り来しときに乳房とがりゐき     〃

 次はこれらへの返歌か。

おもむろに人は髪よりくずおれぬ 水のごときはわが胸のなかに

〈「メビウスの地平」〉

動こうとしないおまえのずぶ濡れの髪ずぶ濡れの肩 いじっぱり!    〃

きみに逢う以前のぼくにあいたくて海へのバスに揺られていたり     〃

            *

もの言わで笑止の蛍 いきいきとなじりて日照雨(そばえ)のごとし女は

〈「やぐるま」S61('86)

 (22.9/4 追記)

 22年3月に永田による「あの胸が岬のように遠かった ― 河野裕子との青春」が上梓された。巻中この歌にまつわる次のような記述がある。

きあうようになってからくちづけまでがいかにも長かった。そして、くちづけからセックスに至るまでもまた長かった。女性の胸は、若い男性にとって手の届かない憧れである。「岬のように遠」いのである。それに手を伸ばせない自らの少年性の口惜しさを歎く歌である。なんと初な二人であったのかと、こうして書きつつ、わが子を励まし、応援するような気分にもなってくる。(p143)

 はからずも不躾な妄想も図星だったわけだ。

 

 
88

 め  し                                                 をんてん                                                 よ                            

目廃ひよといなびかりくる遠天を語りきつひのことば夜なりき

奥井美紀〈「地に湧く泉」S48 ('73)

S25 -                                                           

 短歌にはもちろん制約があって、自由律ですら意のままに言葉をコントロールするわけにはいかない。それどころか、その磁場に踏み迷った者は、その意志にかかわらず、韻律の深い底からの力によって、強制的にうた - 言葉を吐きつづけさせられることさえあるのではないか。そんな思いが、この奥井美紀という歌人のうたを読むうちに湧いてくる。

涙あふるる無風樹間よさんさんと髪のにほふも春のこだまか   〈「地に湧く泉」〉

掬えば残るわが手のかたち水()えてたれに告ぐべしこのひとことを    〃

生まれきて乳房(やさ)しくさんさんと花ふぶき舞ふこゑもなかりき

〈「スリシュティ」S50('75)

きらきらとまぐはふ父母はなげきなりわれを結びし雪の夜のごと     〃

母よいまあへがでわれを身ごもれな月かげあをく雪明りする       〃

なんすれぞこがれをさなく苦しめてつひにあはざる燃え飛ぶ一樹     〃

とどめおくわれはなかりきわれは風虚空の夢を吹きわたるなり      〃

さらはれて風にさらはれいづくの空ぞほのほのもだへもえひろごるぞ

〈「かざぐるま」S52('77)

たまひても地はやすらはず泉みよゆゑしれぬ亀裂ゆわきいづる見よ    〃

いのち生くるはこらへがたしよわれはもわれはも()ぞみたし放てよ    〃

いのちかへり()ゑまふ虚空をつつみてないのちかへり来こもり立ちてな  〃

はるかぜは小鳥おまへね春風は小鳥おまへねこもり陽うたふ       〃

 韻律の魔の命ずるままに吐き出させられたうたが、しだいに加速して、ついには解体寸前にまでいたる過程がまざまざと見えるようだ。

* この歌人については、以前ややまとまった文を書いた。

☛  私は〈歌の中の私〉を制御できなかった    

 

 

 

89

 

逝く父をとほくおもへる耳底にさくらながれてながれてやまぬ

永井陽子〈「なよたけ拾遺」S53('78)

S26('51) - H12('00)                   

 このうたは、歌集上梓の数年前の父の死を踏まえたものだろう。だが、その現実を永井陽子は虚構の出来事のようにして詠う。うたのなかに等身大の自分を晒してしまうことを、彼女は慎重に排しつづけたようだ。そのために、永井のうたは、“〈私性〉がほとんど完璧なまでに払拭されている…(永田和宏)”などと安直に評されもした。だが、軽やかに虚実のあわいを駆け抜けた初期から、しだいに現実が永井のうたを浸食しようとしてくる。その早すぎた‘晩年’のうたは、あたかも、うたと現実とがきびしくせめぎあうかのような様相を見せて痛々しい。

ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ

〈「なよたけ拾遺」S53('78)

貝殻山の貝殻の木が月光にぬれてゐることだれにも言ふな      〃

人ひとり恋ふるかなしみならずとも夜ごとかそかにそよぐなよたけ  〃
べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊

〈「樟の木のうた」S58('83)

あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ  

〈「ふしぎな楽器」S61('86) 〉 

ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり

〈「モーツァルトの電話帳」H5('93)

比叡山おばけ屋敷はいまもあそこにあるのだらうか なう 白雲よ   〃

母がめそめそ泣く陽だまりやこんな日は手鞠つきつつ遊べたらよし

〈「てまり唄」H7('95)

ぎゆるぎゆると風が巻き上げゆく雲を見上げてをりぬ どうにもならぬ  〃

父を見送り母を見送りこの世にはだあれもゐないながき夏至の日

〈「小さなヴァイオリンが欲しくて」H12('00)

いまいちどすず風のやうな歌書かむ書かば死ぬらむ夏来るまへに     〃

* 永井陽子のうたについてはここでは語りきれないので、別に記した。

☛  櫛はわたしにひろはれしのみ     

 

 

 

90

 

天使の臀 夏の葉むらに恥ぢらひてあわだつほどのまひるまの夢

読人不知

 

 

 

91

                 ちちふさ

垂れこむる冬雲のその乳房を神が両手でまさぐれば雪

松平盟子〈「天の砂」H22('10)

S29('54) -                  

 ‘垂れこむる’冬雲-乳房をまさぐるのだから、神はその下に位置するはずだ。すなわち、これは、気象と照応しつつ地上の男女の営みをうたったものでなければならない。

君の髪に十指差しこみ引きよせる時雨の音の束の如きを

〈「帆を張る父のやうに」S54 ('79)

今日にして白金のいのちすててゆくさくらさくらの夕べの深さ

〈「プラチナ・ブルース」H2('90)

 

91

 

終ります白梅散りて 終ります紅梅散りて いつか終ります

小島ゆかり〈「エトピリカ」H14 ('02)

 S31('56) -                        

 平明な口語による小島ゆかりのうたはよく知られている。

 団栗はまあるい実だよ樫の実は帽子があるよ大事なことだよ 〈「月光公園」H4('92)
 そんなにいい子でなくていいからそのままでいいからおまへのままがいいから

〈「獅子座流星群」H10('98)

 だが、このような完全な口語のうたは実は数少ない例外である。小島のうたはほとんどが文語でつくられており、第一歌集からすでにみごとな美しい文語体が駆使されている。

()藍青(らんじやう)(そら)のふかみに昨夜(よべ)切りし爪の形の月浮かびをり    〈「水陽炎」S62 ('87)〉
渡らねば明日へは行けぬ暗緑のこの河深きかなしみの河       〃

 そしてその後も ―。

青日傘さして白昼(まひる)の苑にゐし女あやめとなりて出で来ず     〈「獅子座流星群」〉

温水ぬるみずの田螺おそるべし藻を食みてじつとつるみてぞくぞくと殖ゆ   〈「希望」H12('00)

  小島ゆかりにとっては口語も文語も特にこだわりをもって使い分けるものでははなく、うたは言葉をあれこれ捏ね繰りまわすことなく自然に口をついて出てくるもののようだ。天性の歌人というべきだろう。実際は知るところではないけれど、小島がうんうんと呻吟している姿は想像しにくい。
 従って、一首のなかに口語と文語が混ざるうたも少なからずあって、冒頭のうたなどがその典型である。これを、例えば口語だけにするのは実にたやすい。

終ります白梅散って 終ります紅梅散って いつか終ります

 また、文語で作ることも。

終りなむ白梅散りて 終りなむ紅梅散りて いつか終りなむ

 だがこうしてみると、この口語・文語混りのこのうたがいかに秀逸かがはっきりわかる。
 口語だけのうたは、この詠み手の個人的な手詰まり感、閉塞感を詠っているだけのように見える。
 文語だけなら、花が散ることの寂寥がクローズアップされるだろう。
 だが、この口語・文語が重なるうたになると、個人の心情を詠っただけとも、また、花に寄せた思いを詠っただけとも思えない。脳裡にこびりつく“終ります”のリフレイン。人の力の及ばぬのっびきならないなにかが暗示される。人生そのものの宿命、あるいはこの世の避けがたい静かな終末さえもが予感されているように思えるのだ。

           *

かなしみのかたつむり一つ胸にゐて眠りても雨めざめても雨  〈「獅子座流星群」〉

ちちははの嘘 われの嘘 子らの嘘 曼珠沙華もう数へきれない   〃

月ひと夜ふた夜満ちつつ厨房にむりッむりッとたまねぎ芽吹く 〈「希望」〉

なにゆゑに自販機となり夜の街に立つてゐるのか使徒十二人  〈「エトピリカ」〉

紅椿いちりん落ちてその枝にいちりんほどの(くう)(ひら)きたり    〈「憂春」H17('05)

思はねばパレスチナいま無きごとし煮え湯のやうな夏のかげろふ   〃

ぢりぢりと油照りして死蝉(しにぜみ)のかたへを歩く死に近き蝉    〈「折からの雨」H20('08)

おとうさんわたしはこんなに空腹でさくら食べたよつめたいさくら

〈「さくら」H22('10)

‘そんなにいい子で…’について ☛ 21.4/02 ブログ 女あやめとなりて

 

 

 

92

 

風狂ふ桜の森にさくらなく花のねむりのしづかなる秋

水原紫苑〈「びあんか」H1 ('89)

S34('59) -               

 不在の桜。もう咲いていない桜を詠うのは決してめずらしくはない。例えば ―。

いつのまに散りはてぬらん桜ばな面影にのみいろを見せつつ  躬恒〈後撰132〉 

をしめども散りはてぬれば桜花いまはこづゑをながむばかりぞ 後鳥羽院〈新古今146〉

吉野山はなのふるさと跡たえてむなしき枝に春風ぞ吹く    良経 〈新古今147〉

 これらのうたの眼目はあくまでもなくなってしまった桜、面影の桜だ。一方、水原紫苑のこのうたでフォーカスされるのは、桜のなくなった‘現在の’森、眼前の景色である。季節は秋。‘風狂ふ’のに、花はねむっているので‘しづかなる’秋なのである。

 ところで、やはり桜のない情景を詠ったたいへんよく知られたうたが、実は新古今にもある。

見わたせばはなももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮  定家〈新古今363〉

 これも秋のうたである。 

      *

菜の花の(きい)溢れたりゆふぐれの素焼きの壺に処女のからだに 〈「びあんか」〉

まつぶさに眺めてかなし月こそは()(また)き裸身と思ひいたりぬ       〃

滅びたる蜘蛛の時間が散つてゐて母のみいまだ夕焼けをらぬ 〈「うたうら」H4('92)

 

 

 
93

 

かつて吾鯨でありし日のやうにろんろんと啼きて母を捨てたし

川野里子〈「太陽の壺」H14 ('02)

S34('59) -                      

 鯨の生態はすべてはわかっていないらしいが、母鯨は母乳を与えながらしばらく子を守り育てるという。子鯨はいつ母の元を離れていくのだろうか。茫洋たる大海原に、よりどころなく旅立っていく。“ろんろん”と響きとどろく啼き声はその孤独と捨てるものの重さをみごとに言い表してしている。川野にはさらに次のようなうたも。

わが裡のしづかなる津波てんでんこおかあさんごめん、手を離します

 〈「ガラスの島」H30 ('18)

* “てんでんこ”の部分は本来傍点だが、表示できずやむを得ず傍線に代えた。

       *

あめんぼの足つんつんと蹴る光ふるさと捨てたかちちはは捨てたか

〈「五月の王」H2('90)〉 

はなみずき恋のつづきの家族にて咲き盛る白が痛くてならぬ   〈「青鯨の日」H9('97)

樋口一葉またの名を夏まつすぐに草矢飛ぶごと金借りにゆく 〈「太陽の壺」H14('02)

家族の家いままぼろしにかへりゆく母が背骨の透きとほる家     〃

べらばうに命が痒い咲きかけの泰山木がゆれてゐるあのあたり    〃

さびしいか右足出してさびしいか左足出して 蟇は歩めり  〈「王者の道」H22('10)

 

 

 
94

 

生まれては死んでゆけ ばか 生まれては死に 死んでゆけ ばか

早坂類〈「ヘヴンリー・ブルー」H14 (02')

S34('59) -                                                              

 これは誰に対して言っているのか。理不尽な行為をしかけてきた相手に対して、というのがすぐ思い浮かぶ。だが、それでは“生まれては”という句が不可解である。思うに、これは自己嫌悪のあまりの自らに対する罵倒ではないか。あるいは、まさに死んでしまった愛する者に向かっての絶望のあまりの絶叫ともとれる。“生まれては死に”で一旦リズムが断絶する。あまりに激しく叫んだがために、ここで息が詰まってしまったのだ。

十八歳の聖橋(ひじりばし)から見たものを僕はどれだけ言えるだろうか

〈「風の吹く日にベランダにいる」H5('93)

死後に来る春にほのかに咲いているしずかなしずかなしずかななずな  〃

なにもないすることがなにもない何もないです 前略かしこ〈「ヘヴンリー・ブルー」〉

壊れてよ もっと壊れて どこまでも壊れ果ててよ 解体屋です   〃

ひとしきり虫をいじめる泥の道 呼ばれてうしろにひっくりかえる

〈「黄金の虎 ゴールデン・タイガー」H21('09)

あたたかな水の中から歌が来る ここは真ん中 そこも真ん中    〃

 

 

 

95

 

疾風にみどりみだるれ若き日はやすらかに過ぐ思ひゐしより

大辻隆弘〈「水廊」H1('89)

 S35('60) -                                     

 終句や三句を已然形で終わる例は少なくない。(係り結びの“こそ”が省略されたもの。“白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ”-牧水)だが、二句切れの已然形止めは珍しい。さしあたって思いつくのは次のうただろうか。

めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり  〈「赤光」茂吉〉

 しかし、この“みどりみだるれ”も実にみごとに決まっている。連体止めにして“みどりみだるる”でも、“みどりみだれぬ”でも、字余りで“みどりみだれたり”でもいけない。已然形であるから、“みどりみだるれ(ば、ども)”のニュアンスを補って読むこともでき、この鮮やかな初句-2句と、3句以降の静かな追想へと絶妙に橋渡しするのは、やはりこの“みどりみだるれ”でなければならない。

あかねさす真昼間父と見つめゐる青葉わか葉のかがやき無尽  〈「水廊」〉

朝の樹にきらめき返す水の(ひだ) うつむいたまま夏が終るよ      〃

つまりつらい旅の終りだ 西日さす部屋にほのかに浮ぶ夕椅子 〈「抱擁韻」H10('98)

突つ込んでゆくとき声に神の名を呼びしか呼びて神は見えしか 〈「デプス」H14('02)

 

 


96

 

さくらさくらさくら咲き初め咲き終りなにもなかったような公園

俵万智〈「サラダ記念日」S62 ('87)

 S37('62) -                    

 桜が消えたあとの情景。93の水原紫苑のうたと同趣のようにも見えるが、そうではない。

 桜が咲きほこっていた時の公園、散り終わって跡形もない公園、それははたして同じ公園なのだろうか。さらに”さくらさくらさくら咲き初め咲き終り”という循環するようなフレーズから自ずと次のような思いに至る。翌年、翌々年、桜が満開になる時、その公園もまた同じ公園なのだろうか。そしてそこに私はいるのだろうか…。ここでうたわれているのは、記憶の中の桜でも、桜が咲き終わった公園の情景でもなく、その不思議な断絶そのものなのだ。

思い出の一つのようでそのままにしておく麦わら帽子のへこみ  〈「サラダ記念日」〉

ゆく河の流れを何にたとえてもたとえきれない水底(みなそこ)の石        〃

むらぎもの心おもいっきり投げんきっと天気になる明日のため     〃

はなび花火そこに光を見る人と闇を見る人いて並びおり  〈「かぜのてのひら」H3('91)

 

 

 

97

 

春雷よ 「自分で脱ぐ」とふりかぶるシャツの内なる腕の十字

穂村弘〈「シンジケート」H2 ('90)

S37('62) -                     

 “腕の十字”は“かいなの~”だろうかそれとも“うでの~”だろうか。“かいな”なら終句は7音になって座りはいい。だがそれでよいか。穂村弘の妄想ワールド。大気の不安定から引き起こされる春雷が暗示するように、ふたりの関係はまだ危なっかしくおぼつかない。向かい合うふたり。意を決して彼が彼女に手を伸ばす。一歩後ずさって彼女がぴしゃりと言う。“いい、自分で脱ぐから”。さっさとTシャツをたくしあげる彼女。間抜けた中途半端な状態のまま突っ立つしかない彼。やはりここは“かいな~”では決まりすぎだ。“うでのじゅうじ”と尻切れトンボでなくてはなるまい。― しかし、なんだこれ、と思いながらもいつのまにか脳みそに貼りついてくるようなうたばかりではない、このような比較的‘まともな’うたも穂村は巧い。“シャツの内なる腕の十字”、なんて実ににくい表現だ。ほかに例えば次のようなうたも―。

抱き寄せる腕に背きて月光の中に丸まる水銀のごと      〈「シンジケート」〉
風の夜初めて火を見る猫の目の君がかぶりを振る十二月        〃

 そしてなんだこれ、の、しかし忘れられないうた。

体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ  〈「シンジケート」〉

「猫投げるくらいがなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ」 〃

泳ぎながら小便たれるこの俺についてくるなよ星もおまえも      〃

サバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい   〃

ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。

〈「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」H13('01)

夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう  〃

ぱくぱくと口は動いているものを、おとうさん、おかあさん、ぼ 

〈「水中翼船炎上中」H30('18)

 

 

 

98

 

廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て

東直子「春原さんのリコーダー」H8('96)

S38('63) -                         

 桃を包んだ新聞紙に廃村の記事が載っている。傷みやすい桃と、ダム建設などで水の底に沈められようとしているのだろうかその村とがシンクロする。不条理で抗いがたく凶暴な、しかし見えない力の前に、来て、といういたいけな一語が切ない。“ふれればにじみ/ゆくばかり 来て”という下の句の韻律もうつくしく、ほのかに官能的なニュアンスも漂ってくるようだ。
 上記のうたを収めた第一歌集につづく第二歌集には次のようなうたが。

 好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ

〈「青卵」H15('03)

  カヌーが燃えるのは「われ」の情念によってである、と水原紫苑は解釈したが、あまりに‘水原紫苑’的にすぎるだろう。あなたがあっさりさらっていってしまったすべて、それはわたしのちからのまったく及ばぬままに勝手に炎上してしまう。手の届かないフィルムのなかの美しい一シーンのように。わたしはそれをただ見つめることしかできない。
 さらに次のようなうた。

陰毛のみ残した身体さらしたらもうなんでしょうなにもないです

〈角川雑誌『短歌』掲載H15('03)

 不条理、というよりそのありよう自体がわけのわからない世界。そこにうまくコミットできず呆然とたちすくむ。泣くべきなのか、笑うべきなのか、いや、呆然とするべきなのかさえわからない。反応のしかたすらもわからないまま、ただ佇むしかない。世界とはじつはだれにとってもそのようなものではないのか。カヌーはあちら側で勝手に燃えあがってしまうのだ。

おねがいねって渡されているこの鍵をわたしは失くしてしまう気がする

〈「春原さんのリコーダー」〉

一度だけ「好き」と思った一度だけ「死ね」と思った 非常階段   〃

雨が降りさうでねとても降りさうであたしぼんやりしやがんでゐたの 〈「青卵」〉

ママンあれはぼくの鳥だねママンママンぼくの落とした砂じゃないよね   〃

辻に立つ祖母がふわりとふりかえりお家がとけてゆくのよと言う      〃

遠くから来る自転車をさがしてた 春の陽、瞳、まぶしい、どなた     〃

電話口でおっ、て言って前みたいにおっ、て言って言って言ってよ     〃

ねえ夢に母さんがいたとおいとおいとおい日の母さんがいた        〃

泣きながらあなたを洗うゆめをみた触角のない蝶に追われて 〈「愛を想う」H22('04)

 

 

 

99

                        ゼブラ・ゾーン

空をゆく鳥の上には何がある 横断歩道に立ち止まる夏

梅内美華子〈「横断歩道ゼブラ・ゾーン」H6('94)

S45('70) -                                                 

 足元をさっと鳥の影がよぎる。見上げれば鳥の姿はもうそこにはない。吸い込まれるような眩い夏の空。本来立ち止まるべきでない横断歩道で、一瞬の永遠のように時間が静止する。

 “空をゆく鳥の上には何がある”という意表を突くような上の句は、計算のうえではあるまい。なんの作為もなく不意に降りてきた言葉。鮮やかなイメージ。この若い時だけのかけがえのない声調。

 今や揺るぎない実績を重ねた歌人でも、こんなうたは一生に一度だけしか詠むことはできない。

つんつくつんつんつくつんと揺れながら下駄の少女が橋渡りくる〈「火太郎ほたろう」H15('03)

わあと鳴る桜 ほっほと息をつぐ桜 散るまで走る花の日      〃

「それは灰」と誰かが言へば骨ひろふ箸の先にて祖母くづれたり  〈「夏羽なつばね」H18('06)

人生は「あの日」を積みてゆくものかスクランブルに熱風くだる〈「真珠層」H28('16)

 

 

 

100

 

最後だし「う」まできちんと発音するね ありがとう さようなら

ゆず〈雑誌『ダ・ヴィンチ』H20 ('08)

 H2('90) ?-                                             

 総合雑誌「ダ・ヴィンチ」連載の「短歌ください」に投稿されたうた。撰者の穂村弘は、別のエッセイで別人のこの手のうた(”たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう” 今橋愛)に対して“〈私〉の想いそのものであって…余りにも等身大の文体は…ほとんど棒立ちという印象を受ける”と書いている。同時にこれらのうたには“奇妙な切実さや緊迫感”があるとも。このうたをつくったゆずという人は当時18歳で、今も残っている本人のホームページによれば、この頃様々な場に短歌を投稿していたようだ。だがその熱も程なく冷めたらしく更新もされなくなっている。

 ‘ありがと’、‘さよなら’といえるのは気の置けない間柄なればこそだ。だが、心の距離ができてしまったうえはよそよそしくとも“きちんと”いうほかはない。“発音する”という言い回しがいかにも素人くさい。しかし、なるほどここには却って他では表現のしようのないリアリティがある。“最後だし”が図らずも(?)絶妙で、これが“最後だから”では重すぎてしまう。何年もの長い付き合いではなく、せいぜい半年程度だろうか。そしてそのようなはかない関係しか築けなかった切なさをも、このうたはにじませているようだ。

 この人のうたは「短歌ください」で何首か採られていて、次のような作品もある。

 「ほんとうは誰も愛していないのよ」ペコちゃんの目で舐めとるフォーク
 カタツムリ踏み潰すのに似ているね そんなところにキスをすること

 

 

◇   ◇   ◇

 

 

  

                      たた               こも

01 倭は 国のまほろば 畳なづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし

倭建命 (古事記)

        うるは              かりこも                                

02 愛しとさ寝しさ寝てば刈薦の乱れば乱れさ寝しさ寝てば            きなしのかるのひつぎのみこ

木梨軽太子(古事記)

           け                                       

03 君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つにはまたじ    かるのおおいらつめ / そとおりのいらつめ

軽大郎女(衣通郎女)(古事記)

 

04 三輪山をしかも隠すか雲だにもこころあらなむ隠さふべしや

額田王〈万葉18〉

                             しな                             かど

05 夏草の思ひ萎えて偲ふらん妹が門見む靡けこの山

柿本人麻呂〈万葉131〉

               あ し び

06 磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに  おおくのひめみこ

大伯皇女〈万葉166〉

    あ

07 我を待つと君が濡れけむ足引の山の雫にならましものを         いしかわのいらつめ 

石川郎女〈万葉108

     いは       たるみ       さわらび

08 石ばしる垂水のうへの早蕨の萌え出づる春になりにけるかも     しきのみこ

志貴皇子〈万葉1418〉

                             ゑ 

09 青山を横ぎる雲のいちしろく我と笑まして人に知らゆな      おおとものさかのうえのいらつめ 

 大伴坂上郎女〈万葉688〉

                 たづ よそ

10 闇の夜に鳴くなる鶴の外のみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに    かさのいらつめ

笠郎女〈万葉592〉

        くれなゐ        したで

11 春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ乙女

大伴家持〈万葉4139〉

 

12 山風にさくら吹きまきみだれなむ花のまぎれに立ちとまるべく

遍照 〈古今394〉

 

13 月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして

在原業平古今747/伊勢物語〉

 

14 君や来し我や行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか

読人不知〈古今645/伊勢物語69段-恬子内親王?〉

 

15 思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを

小野小町〈古今552〉

 

16 花と散り玉とみえつつあざむけば雪ふる里ぞ夢に見えける

菅原道真〈新古今1695〉

 

17 秋きぬと目にはさやかに見えねどもかぜの音にぞおどろかれぬる

藤原敏行〈古今169〉

 

18 さくら花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞたちける

紀貫之〈古今89〉

 

19 衣手ぞ今朝は濡れたる思ひ寝の夢路にさへや雨は降るらん

凡河内躬恒〈躬恒集〉

 

20 死出の山越えて来つらむ時鳥恋しき人のうへ語らなむ

伊勢〈拾遺1307〉

 

21 うつつには心もこころ寝ぬる夜の夢とも夢と人にかたるな

中務〈中務集〉

 

22 わぎもこが汗にそぼつる寝たわ髪なつのひるまはうとしとや見る

曽禰好忠〈曽丹集〉

 

23 見し夢にうつつの憂きも忘られて思ひなぐさむほどのはかなさ

徽子女王〈斎宮集〉

                    しのだ

24 うつろはでしばし信太の森を見よかへりもぞする葛のうら風

赤染衛門〈新古今1820〉

 

25 年暮れて我が世ふけゆく風のおとに心のうちのすさまじきかな

紫式部〈玉葉1036〉

 

26 黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき

和泉式部〈後拾遺755〉

 

27 なにか思ふなにをか嘆く春の野に君よりほかに菫摘ませじ

相模〈相模集〉

 

28 浅みどり花もひとつにかすみつつおぼろにみゆる春の夜の月

菅原孝標女〈新古56/更級日記〉

 

29 雲はらふ比良の嵐に月さえて氷かさぬる真野のうら波

源経信〈経信集〉

 

30 風ふけば蓮の浮き葉に玉こえて涼しくなりぬ日ぐらしのこゑ

源俊頼〈金葉145〉

             かたの      み の

31 またや見む交野の御野の桜狩り花の雪ちる春の曙

藤原俊成〈新古114〉

 

32 風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬ我が思ひかな

西行〈新古1613〉

 

33 散りにけりあはれうらみの誰なれば花のあととふ春の山風

寂蓮〈新古155〉

 

34 山たかみ嶺の嵐に散る花の月にあまぎる明け方のそら

二条院讃岐〈新古130〉

 

35 ほととぎすそのかみ山のたびまくらほのかたらひし空ぞ忘れぬ

式子内親王〈新古1486〉

 

36 明けばまづ木の葉に袖をくらぶべし夜半の時雨よ夜半の涙よ

慈円〈拾玉集〉

          あさぢ

37 風わたる浅茅がすゑの露にだにやどりもはてぬよひの稲妻

藤原有家〈新古377〉

 

38 今や夢昔や夢とまよわれていかに思へどうつつとぞなき

建礼門院右京大夫〈風雅1915〉

 

39 桜花夢かうつつか白雲のたえてつれなき嶺の春風

藤原家隆〈新古139〉

 

40 年も経ぬ祈るちぎりは初瀬山をのへの鐘のよその夕ぐれ

藤原定家〈新古1142〉

 

41 帰る雁今はのこころありあけに月と花との名こそをしけれ

九条良経〈新古62〉

 

42 葛の葉のうらみにかへる夢の世をわすれがたみの野辺の秋風

俊成卿女〈新古1563〉

                       をとめご

43 風は吹くとしづかに匂へ乙女子が袖ふる山に花の散るころ

後鳥羽院〈後鳥羽院御集〉

 

44 うすくこき野辺のみどりの若草に跡までみゆる雪のむら消え

宮内卿〈新古76〉

 

45 萩の花くれぐれまでもありつるが月いでて見るになきがはかなさ

源実朝〈金槐和歌集〉

 

46 人知れぬ身をうつせみの木隠れてしのべば袖にあまる露かな

順徳院〈建保二年内裏歌合〉

 

47 花のうへにしばしうつろふ夕づく日入るともなしにかげ消えにけり

永福門院〈風雅199〉

 

48 散るは憂きものともみえず桜花あらしにまよふあけぼのの空

二条為子〈後拾遺120〉

 

49 心うつすなさけもこれも夢なれや花うぐひすのひとときの春

徽安門院〈風雅204

 

50 時ならぬ風や吹くらし桜花あはれ散りゆく夕暮の空

安藤野雁(ぬかり)〈野雁集〉

 

                        たま

51 其子等に捕へられむと母が魂蛍と成りて夜を来たるらし

窪田空穂〈「土を眺めて」〉

    ご  せ

52 後世は猶今生だにも願はざるわがふところにさくら来てちる

山川登美子〈『明星』掲載〉

 

53 ほのぼのとおのれ光りてながれたる蛍を殺すわが道くらし

斎藤茂吉〈「赤光」〉

 

54 雪の上に春の木の花散り匂ふすがしさにあらむわが死顔は

前田夕暮〈「夕暮遺歌集」

           ひえ                    こ       し

55 照る月の冷さだかなるあかり戸に眼は凝らしつつ盲ひてゆくなり

北原白秋〈「黒檜」〉

       しぶき

56 秋、飛沫、岬の尖りあざやかにわが身刺せかし、旅をしぞ思ふ

若山牧水〈「死か芸術か」

                     あきび                        みち

57 曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径

木下利玄〈「みかんの木」〉

 

 

58 桜の花ちりぢりにしも
   わかれ行く 遠きひとり

   と 君もなりなむ

釋迢空〈「春のことぶれ」〉

 

            は な         ひと     しろは

59 咲きこもる桜花ふところゆ一ひらの白刃こぼれて夢さめにけり

岡本かの子〈「浴身」〉

 

60 (はる)(みさき) (たび)のをはりの(かもめ)どり
  ()きつつ(とほ)くなりにけるかも

三好達治〈「測量船」〉

             いちご       ほむらだ           あぎも

61 これやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹

吉野秀雄〈「寒蝉集」〉

 

62 春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ

前川佐美雄〈「大和」〉

                                         しふね

63 風葬ををはりきたりて嗚咽しき病みゐれば見る夢も執念き

生方たつゑ〈「火の系譜」〉

                             やてん  も     ふら

64 母よ母よ息ふとぶととはきたまへ夜天は炎えて雪零すなり

坪野哲久〈「百花」〉

 

65 疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ

葛原妙子〈「朱霊」〉

            あゐ

66 あぢさゐの藍のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あかねさす昼

佐藤佐太郎〈「帰潮」〉

               あきつ

67 ぬばたまの黒羽蜻蛉は水の上母に見えねば告ぐることなし

齋藤史〈「風に燃す」〉

                       さ

68 ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

宮柊二〈「山西省」〉

 

69 火の匂ひ、怒りと擦れあふ束の間の冬ふかくして少年期果つ

浜田到〈「架橋」〉

                                     あけ

70 さらば夜の怒りのあとのふくだみし魂魄のごと暁のあぢさゐ

安永蕗子〈「蝶紋」〉

 

71 冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか

中城ふみ子〈「乳房喪失」〉

 

72 人妻の乳首の紅のにごりゆく夜のさみだれの寝ぐるしさかな 

吉岡実「魚藍」〉

 

73 五月來る硝子のかなた森閑と嬰兒みなころされたるみどり

塚本邦雄〈「緑色研究」〉

 

74 ごろすけほう心ほほけてごろすけほうしんじついとしいごろすけほう

岡野弘彦〈「飛天」 〉

 

75 草萌えろ、木の芽も萌えろ、すんすんと春あけぼのの摩羅のさやけさ

前登志夫〈「樹下集」〉

 

76 抱くとき髪に湿りののこりいて美しかりし野の雨を言う

岡井隆〈「斉唱」〉

 

77 われのおにおとろえはててかなしけれおんなとなりていとをつむげり

馬場あき子〈「飛花抄」〉

          かけを き

78 音さやに懸緒截られし子の立てばはろけく遠しかの如月は

美智子妃〈「瀬音」〉

 

79 夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず

寺山修司〈「空には本」〉

 

80 あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

小野茂樹〈「羊雲離散」 〉

 

81 花びらはくれなゐうすく咲き満ちてこずゑの重さはかりがたしも

小中英之〈「わがからんどりえ」〉

 

82 夏の女のそりと坂に立っていて肉透けるまで人恋うらしき

佐々木幸綱〈「群黎」〉

                                  ゆふづつ

83 少年に戻れとならば戻れるは微罪のごとし夕星見つつ

春日井建「井泉」〉

 

84 こぼれたる鼻血ひらきて花となるわが青年期終りゆくかな

玉井清弘〈「久露」〉

 

85 水風呂にみずみちたればとっぷりとくれてうたえるただ麦畑

村木道彦〈「天唇」〉

 

86 逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと

河野裕子〈「森のやうに獣のやうに」〉

 

87 あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年

永田和宏〈「メビウスの地平」〉

    め  し                 をんてん                よ

88 目廃ひよといなびかりくる遠天を語りきつひのことば夜なりき

奥井美紀〈「地に湧く泉」〉

 

89 逝く父をとほくおもへる耳底にさくらながれてながれてやまぬ

永井陽子〈「なよたけ拾遺」〉

 

90 天使の臀 夏の葉むらに恥ぢらひてあわだつほどのまひるまの夢

読人不知

                    ちちふさ

91 垂れこむる冬雲のその乳房を神が両手でまさぐれば雪

松平盟子〈「天の砂」〉

 

91 終ります白梅散りて 終ります紅梅散りて いつか終ります

小島ゆかり〈「エトピリカ」〉

 

92 風狂ふ桜の森にさくらなく花のねむりのしづかなる秋

水原紫苑〈「びあんか」〉

 

93 かつて吾鯨でありし日のやうにろんろんと啼きて母を捨てたし

川野里子〈「太陽の壺」〉

 

94 生まれては死んでゆけ ばか 生まれては死に 死んでゆけ ばか

早坂類〈「ヘヴンリー・ブルー」〉

 

95 疾風にみどりみだるれ若き日はやすらかに過ぐ思ひゐしより

大辻隆弘〈「水廊」〉

 

96 さくらさくらさくら咲き初め咲き終りなにもなかったような公園

俵万智〈「サラダ記念日」〉

 

97 春雷よ 「自分で脱ぐ」とふりかぶるシャツの内なる腕の十字

穂村弘〈「シンジケート」〉

 

98 廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て

東直子〈「春原さんのリコーダー」〉

                                   ゼブラ・ゾーン

99 空をゆく鳥の上には何がある 横断歩道に立ち止まる夏

 梅内美華子〈「横断歩道ゼブラ・ゾーン」〉

 

100 最後だし「う」まできちんと発音するね ありがとう さようなら

ゆず〈雑誌『ダ・ヴィンチ』掲載〉

 

 

[ 2021.1/1]              

* '21.6/25 (91)松平→99梅内  

* '21.8/11(73)塚本記事に追記 

* '22.9/4(87)永田記事に追記   

*'23.12/16(65)葛原記事に追記