山本福松(二代)についての、江戸川乱歩と四谷シモンの文章。
それぞれとても興味深いものだ。以下 その箇所を引用する。 ☞
江戸川乱歩のエッセイ「人形」。
だんだん需要が少なくなって、人形師も亡びて行ったが、それでもまだ東京に三軒(?)ほどの人形師の家が残っている。子供の時分聞きなれた安本亀八の第何世かも、自分では手を下さぬが、弟子に仕事をやらせている。現に仕事をしている人では、山本福松氏が昔ながらのたん念な人形師らしく思われる。(中略)私は「蜘蛛男」という続き物に、全く空想で人形工場を書いたことがある。福松氏はそれを読んでいて、「あれは私の家をモデルにしたのではありませんか」と尋ねた由だ。私の空想は大して間違ってもいなかった様子である。 ([東京朝日新聞]」1936年1月14日 )
では、その「蜘蛛男」の描写。
汚いバラック建の板の間で、数人の職人が仕事をしていた。一方の土間では小僧達が、立ち並んだぬっぺらぼうの土の首へ、黄色い塗料を塗っていた。職人のあるものは人形の首のお化粧をしたり隈を入れたりしている。一方では毛髪を植えているかと思うと、一方ではガラスの眼玉を入れている。板の間には、赤いのや青ざめたのや、いろいろな首が、ゴロゴロ転がっている。そうかと思うと、一方の壁には、白っぽい人間の生首が、指をひろげたり、空をつかんだりして、十本も二十本も、まるで大根かなんぞのように、ズラリと掛け並べてある。 (「講談倶楽部」1929年8月~1930年6月)
四谷シモンは、それまでの文章と対話のほとんどをまとめた「四谷シモン前編」巻末の“語り下ろし”で次のように語る。
…僕はとにかくリアルなつくり物にゾクッとする。それはあくまでも生理的になんだけど、なにか生き写しのようなものに惹かれる。でもそれは、手でつくり出したものに関してであって、型をとってつくったような、つまりデスマスクみたいなものにではない。それでは困る。活き人形――それが人形の極みだし、僕の欲する人形でもある。
明治時代の二代目山本福松という人がつくった童女の人形があって、それをはじめて見たとき、この人形には普遍性があると思った。これは人形以外のなにものでもない。まるで生きているようにリアルで、でも生きた娘ではない。やっぱり人形だっていう感じ。ここには人形以外の不純物がない。僕にとって福松の童女はそんな極北のような人形だった。
さらに次のように続ける。
人形というのは、つくり手のなかにあるピュアな要素を抽出して凝結したものだと思う。つくり手はそれを目指して人形をつくるわけだけど、その美しい純度の高い感性を最大限に引き出してリアリズムを得るには、並外れた技能・技巧が必要だ。明治の人たちの仕事にはそれがあった。それはもう、小僧のころから叩き上げで修練しなければ到達ではないレベルで、感覚だけじゃ絶対にできない。
人形は魂の容れ物。魂を容れるのはそれを見ている人。そして容れ物はどこまでも精緻で美しくあるのが理想だ。それが僕にとっての理想の人形。かつて神が土塊から創造したアダムが本来は知恵を知らずにいて穢れることがなかったように、人形を純粋な魂の容れ物にしたいという願望があるのかもしれない。
(「あのころの僕、これからの僕のこと ― あとがきにかえて」2006年8月31日)
今年の4月1日に国立工芸館が四谷シモンにインタビューした動画がある。
ピノッキオのジュセッペ爺さんのような、好々爺然としたシモン。言葉を探しながら訥々と語る。ああ、シモンも老いたなあ、というのが率直な感想だ。この5月に恵比寿で開催された個展(知ったときにはすでに終わっていた…)パステル画の新作はあったものの、人形は旧作だけだったようだ。もう、80だものなあ…。