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心中天網島

 

 

 ‘初代国立劇場さよなら公演’と銘打った、文楽 心中天網島を観る。

 新聞記事で知ってチケットセンターに電話。なるべくいい席を、といったら千穐楽の今日になった。5列目の左側。まあまあだ。  ☞

 久々になったけれど、文楽は高校生の頃よく観に行った。(もしかしたら中学からだったかも。) 当時、国立劇場は数年前に開場したばかりで、文楽も小劇場ができてここでやっと東京に拠点を持ったはずだ。

 額に青筋を立て顔を真っ赤にした竹本津太夫(8代目)の迫力ある語りや、三味線では鶴澤寛治(6代目)、野澤喜左衛門(2代目)の絶頂期を聴くことができたのは幸運だった。

 人形遣いでは、桐竹紋十郎(2代目)は、観始めて間もなく亡くなってしまったけれど、なんといっても、記憶に鮮明なのは、吉田玉男(初代)と吉田蓑助(3代目)だ。とりわけ蓑助の女形の姿の美しさよ!

 玉男と蓑助は共演することが多かった。穏やかな佇まいの立役の玉男が引き締まった動きを見せれば、端正で厳しい表情の蓑助はしなやかに、たおやかに立ち振る舞った。

 

 

 文楽の素晴らしさ。

 天の網島は近松のなかでもとびきりの傑作だ。紙治の誤解に打ちひしがれる小春、しびれをきらした父の横暴に愁嘆するおさん。なんと哀切きわまりないことか。目頭が熱くなり胸がしめつけられる…。

 だが ―。このシーンを人間の役者が演じたらどうか。はたしてどんな名優でも同じような感情、効果は引き出せまい。

 この哀切は人形ならではのものだ。人形という無機的で抽象的な媒体を通すからこそ、哀切は普遍的なものになる。

 人形自体の表現力などはたかがしれていよう。人間のような複雑な関節もないし、ましてや表情筋などあるわけもない。いくら練達の遣い手が‘本物の人間のように’操っても、役者の細やかさに及びもつくはずがない。ゆえに、その動きの瞬間をスナップショットに撮ってもさしたる趣は望めない。

 

 しかし、人形遣いが操る一連の動きの中で、観る者は自らの感情を人形に投影することになる。(それを引き出す遣い手が名人ということになろう。)

 ふと連想するのは、漫画の吹き出しのセリフに読者自身が自ずとその声調をイメージしていることだ。ところがこの原作がアニメ化されてセリフが吹き込まれると、それがどんな声優であっても必ず違和感を持つ。すなわちもともとのセリフは活字という無機的な媒介を通るからこそ、抽象的な普遍性を持つのだ。声優に発せられて具体化された声は、いかに巧みであっても近似値でしかない。

 同じように、役者が演じる哀切は、個別 具体的な哀切なので、普遍的な‘哀切’そのものではない。

 (上の写真は、土門拳の「文楽」。この写真集には演技する人形に焦点を当てたものはない。人形そのものが撮られるのは、演じられていないとき、無機的なモノすなわち‘木偶’としてである。ちなみにこの遣い手は吉田文五郎(4代目)。この人には間にあわなかった。蓑助の師だったそうな。)

 

 というところで、さて今回の天の網島の公演。

 かつてのような凄い名演というのはなかったものの、充分堪能しました。

 ほぼ全編を通したけれど、ところどころ省略していて、とりわけラストの‘道行名残の橋づくし’はずいぶん割愛されていた。ここがハイライトではないか、という考えもあるだろうが、この段を比較的さらっと終えたために、‘河庄の段’や‘紙屋内の段’の世話物としての性格が強調されたことになって、それはそれでよかったと思う。シンプルではあったけれど、4人の太夫、5丁の太棹三味線がときに一斉に声調を合わせて、ちょっとレクイエムのラクリモーザ(涙の日)を連想したりもした。

 でも、やはり近松の原作の道行のラストは凄くて、ここは今でもほとんどそらで口ずさめるくらいだ。引用しちゃいます。

むくいとはたれゆゑぞわれゆゑつらき死をとぐる、ゆるしてくれと抱きよすれば、いやわしゆゑとしめよせて顔と顔とをうちかさね、涙にとづるびんの髪、野べの、あらしに凍りけり。うしろにひびく大長寺の鐘の声、南無三宝長き夜も、夫婦が命みじか夜とはや明けわたる晨朝(じんでう)に最期は今ぞと引きよせて、あとまで残る死顔に泣き顔残すな残さじと、につと笑顔のしろじろと霜にこごえて手もふるひ、われから先に目もくらみ刃の立てどもなく涙。アゝせくまいせくまい早う早うと女がいさむを力草、風さそひくる念仏はわれにすすむるなむあみだ仏、弥陀の利剣とぐつと刺され引きすゑてものりかへり、七転八倒こはいかに切先のどの笛をはづれ、死にもやらざる最期の業苦共にみだれて、くるしみの、気を取りなほし引きよせて、鍔元まで刺し通したる一刀、ゑぐるくるしき暁の見はてぬ夢と消えはてたり。

 うう、すごい…。“につと笑顔のしろじろと”てのが凄絶ですね…。

 この段は心中のクライマックスにいたるまでは、橋のいわれやらふたりの嫋々たるやりとりなどがつづく。語りの聞かせどころではあっても人形の動きとしては単調で見せ方が難しそう。それもあってコンパクトにしたのだろうか。

 そのあと、浮世の義理を断つべくそれぞれが自分の髪を切ってざんばらになる場面。ここもカットされた。この演出なんかは見たかった気もするなあ。

 

 

 

 

 河庄の段が終わったところで、正午を回って20分の休憩。

 売店で買った柿の葉寿司を搔っ込む。

 ちと慌し。