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グールド忌

 

 これまででもっとも聴いたレコードといえば、間違いなくグレン・グールドだ。

 グールドは'32年の9月25日に生まれて、'82年10月4日に50歳で死んだ。今年が生誕90年、ちょうど今日が没後40年になる。

 なんの素養もないくせにクラシック音楽を一番に掲げるのは気後れしないでもないが、事実だからしようがない。 ☞

 

 高校生の時、どういった風の吹き回しか親からデパートの商品券2千円をもらった。

 これもなんの気紛れか、さしてクラシックなどに関心を持っていたわけでもないのに、使い途を案じて、バッハのオルガンのレコードを買うことにした。当時トッカータとフーガ ニ短調などがちょっとしたブームになっていたからだろう。

 バッハのオルガンといえば、ヴァルヒャかリヒターか、というくらいの知識はあった。通学途中の松坂屋の売り場に行くと、ところが彼らをリリースするアルヒーフやグラモフォンの盤は2千円を大きく超えた。2千円で買えるバッハはないか。

 

 CBSソニーがちょうど2千円だった。グレン・グールドというひとのオルガンがあった。‘フーガの技法’というなんだか辛気臭そうな演目だが、仕方がない。他に選択肢はない。

 

  今聴けば、この演奏がいかにそれまでのオルガン演奏の規範 ― 常識からはみ出したものだったか、ということは分かる。だが、当時の自分はそもそもその常識を知らない。ああ、いい音楽だなあ、と単に思ったのか、ジャケットの裏に八村義夫という現代音楽の作曲家が‘絶対的ビューティフル’‘宇宙空間に星が散らかっていくようだ’と書いていたのに共感したのか。

 

 続けて小遣いをはたいたのは、このグレン・グールドというひとにただならぬものを感じたからだろう。もちろんその頃には、グールドの評価はとっくに揺るぎないものになっていたのだけれど、そんな音楽界事情にはまったく不案内だったのだ。

 イタリア協奏曲、トッカータ ホ短調、パルティータ第4番が収められたアルバム。グールドってピアニストだったのか…!

 このレコードを何十回聴いただろう。自分の部屋の粗末なステレオ装置の前の畳に座り込んで、夢心地のままなにもない空間に浮遊するような陶酔感に、いつのまにか眠り込んでいたこともあった。わけてもイタリア協奏曲の緩徐楽章やトッカータ中間部のアダージョの気が遠くなるような美しさといったら!

 

 グールドの音楽が呼び起こす感覚をなんといったらいいのだろう。もちろん素晴らしいピアニストは他にもいる。アルゲリッチ、ミケランジェリ、リヒテル、グルダ…。だが、グールドはそれらの演奏家とはそもそも比べようがない。

 ショパンのようなロマン派の曲は弾かなかったし、抒情に溺れるような演奏とも無縁だったけれど、グールドの演奏はいわく言い難い感覚を呼び起こす。強いて言えば、喜怒哀楽のいずれでもない、しかしそのすべてを内包したみずみずしい‘原感情’とでもいうべきものが、自分の中に湧き起るのだ。(何枚かの写真に残るリプレイを聴いている時のグールドのあの表情!)誰も聴いたことのないような演奏なのに、“なつかしいグールド・フィーリング”と八村義夫が言ったのはこのことか。

 

 それから彼のレコードを手当たり次第に買い漁ることになる。ゴールドベルク変奏曲、パルティータ、インベンションとシンフォニアはもちろん、ベートーヴェン後期ソナタ、ブラームスの間奏曲集(!)、シェーンベルクのピアノ曲と歌曲(伴奏) … 。

 初めて聴きだしたときには、グールドは40歳になろうとしていて、なお次々に話題-問題アルバムが送り出された。それらの盤も追いかけながら、だがある思いにとらわれないわけにはいかなくなっていた。

 ‘絶対’‘透明’‘純粋’といった類の、口にすれば気恥しくなるような言葉をつい使いたくなるような、あの‘原感情’をみずみずしく喚起 させる演奏は、なぜか、彼の20代から30代のごく初めの頃までのものに限られる。どうしてもそう感じられてならない。(その境は、例のコンサート・ドロップアウトと軌を一にしているようだ…。)

 もちろん、以降のものにも素晴らしい演奏は数限りなくある。バード・ギボンズの小品集、バッハのイギリス組曲やフランス組曲、ベートーヴェンのバガテル、シベリウスのソナチネ、ローズと組んだバッハのチェロソナタ、ハイドンの後期ソナタ … 。

 だが、孤独で‘なつかしい’あの感覚自体は、ついに30代半ば以降のものに再び顕ち現れることはなかった。

 

 思えばグールドというひとは、こちらの勝手な思い込みを越えて、実に多様な面を持っていた。

 喧伝されている実生活での奇矯な行動はさておくとしても、例えばワーグナーの管弦楽曲をみずからピアノ版に編曲したものなどには些か悪趣味では、と辟易とさせられたものだ。(こちらがワーグナー嫌いのせいもあるだろうが。)

 

 ピアニストの青柳いずみこは、“やや古めかしいロマンチックなスタイルでピアノ人生を出発したグールドが…(戦略的に)…時間をかけて少しずつ自分の演奏を整理し、余分なものを取り除いていった”と分析し、『僕は救いがたくロマンチック』『この上ないロマン派』という彼自身の言葉を紹介している(「グレン・グールド - 未来のピアニスト」)

 だが、片山杜秀は次のように的確に指摘している。グールドが受け入れたのは、R.シュトラウスのようなロマンチックなメロディを書いてもその作曲原理がそれを変形・展開させる変奏にあった作曲家、一方、シューマン-マーラー-プロコフィエフのようないろいろな思い付きをパッチワークのように繰り出してくる作曲家には興味を示さなかった(文藝別冊「グレン・グールド」インタヴュー『線の変容』)

 

 グールドの右手と左手がどちらかに従属することなくそれぞれに自在に躍動し、精妙な線の絡み合いを織りなすのは、誰もが感嘆するところだ。

 ゴールドベルク変奏曲について、“右手と左手が全然違うことをしている。…でもその二つが一緒になると、結果的に見事な音楽世界が確立されている。でもどうみても左手は左手のことしか、右手は右手のことしか考えていない。”と村上春樹が述べている。そして“(最晩年の'81年盤に比べて)1955年の録音のほうが、その右手と左手のスプリット感はより強いような気はします。”とも(「みみずくは黄昏に飛びたつ」)。

 

 自身の右手と左手、そしてバッハの楽譜…、それぞれが虚心にぶつかり合う。そこから顕ち上がってくるのは、‘私’を超えた、しかしすべての‘私’に通底する至上の音楽だ。

 だが、ひとりで複数の人間によるジャズセッションをおこなっているかのような営みは、しだいに確立された方法論・知的に練られた演出術に移行していったのではなかったか。もちろんそれを円熟というべきだろう。けっしてマンネリではない。その時どきの演奏に深い探求と斬新な発見があった。けれども …。

 時は戻らない。あの孤独なセッションが奏でる‘原感情’は、私のなかの‘私’がぶつかり合った、若い日にのみ顕現できるものだったのだろうか。