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「こちらあみ子」- 渋谷で映画を観る 原作を読む

 

 渋谷に「こちらあみ子」を観に行く。

 映画館に入るのは実に久しぶりだ。もしかしたら数十年ぶりではなかろうか。ビデオやDVDで観ることはあるけれど、そもそも映像作品鑑賞というのが、あまり得手ではないのだ。

 それでもその気になったのは、主演の子にちょっと興味を持ったから。   ☞

 

 330人のオーディションから選ばれた大沢一菜はそれまで演技経験はなかったそうだ。

 だが小賢しい演技をしない自然体が、この映画の大きな魅力になっているのは間違いない。いや、この子がいなかったら、この映画はどんな作品になりえただろうかとさえ思ってしまう。


 パンフレットと原作の文庫本を買う。

 今村夏子という作家が数年前に芥川賞をとっていることは知っていたけれど、作品を読んだことはなかった。

 

 一気に読んでしまう ―。しばし茫然とする。

 畏るべき小説。これが突然書いてみようかと思いついた小説だとは。

 なんという作家がいたことか。

 

 映画は原作のストーリーやエピソードをほぼ忠実になぞっている。だが原作とこの映画作品とは本質的に違う。映画でのあみ子は、その天衣無縫な行動でさまざまな問題を起こしながらも、それでもお化けたちと交歓し、蛙を咥えた蛇を捕まえて振り回し、‘地団太のようなスキップ’どころか連続の側転をも決めてみせる。波打ち際に立つラストシーンでは“まだ冷たいでしょ”と声を掛けられたのに対して“大丈夫じゃ”と屈託なく返事をかえす。これらは映画に付け加えられたエピソードだ。さらにエンドクレジットで流れるのは亡くなっている(肉親の)母が呼びかけてくる唄だ。あみ子はこの世界に許容され居場所を失ってはいない。

 

 だが、原作のあみ子は、寄る辺ないままこの世界に投げ出されている。

 今村夏子の筆は、安直な希望や救いも、薄っぺらな絶望も提示しない。様々な軋轢のあげく、家庭からも学校からも疎外されて居場所はあやうく狭まってきているのに、その自覚もないままあみ子は覚束なくつっ立っている。

 小説の冒頭とラストで描かれるのは、不思議に静寂な情景だ。祖母の家に引っ越してきて間もない頃のはなしなのだろうか。それともすこし年月のたった頃のはなしなのだろうか。中学を卒業する少し前に片思いののり君に前歯を折られたときの気分を問われ“なにぶん祖母と一緒に暮らす前、ここからずっと遠くの家に住んでいたころの話だから、もうほとんど忘れてしまった。”と書かれている。だが時間の経過について触れられているわけではない。距離は以前の生活との隔絶を表すのか。「忘れんなよう」と言ってくれた坊主頭もふくめて“たくさんのひとたちの顔を忘れた。”

 殆ど前進しているようにはみえない竹馬に乗って、小学生のさきちゃんがやってくるのが遠くに見える。さきちゃんのためにあみ子はすみれを摘んでいる。“友達を大切にしなくてはという思い”をあみ子はもつ。“ゆっくり動くことしかできない、やさしい祖母”が“あみちゃん、あみちゃんな”と呼んでいるのが聞こえた。呼びかけに“はあい”とやわらかくこたえる。空気の読めなかったあみ子は少し成長したのだろうか。成長することはよろこばしいことか。それとも悲しいことか。

 ここは流刑地だろうか。あるいは桃源郷なのだろうか。あたかも永遠に続く夏休みに入ったかのように、時間はゆるやかに、しかしそれでもたしかに流れている。流れていくさきはどこだろうか。