夏至。
誰が夢かのうぜんかづら狂ひ咲く ☞
山茶花の枯れ木に絡ませたのうぜんかずらが咲いた。
植えて2年目だった去年は、忘れた頃、やっと9月末に数輪咲いただけだったけれど、今年はもう10輪以上が一気に開花。
花の蜜に毒があって、これに触れた手で目をこすると失明する、などとの風説があるが、まったく根拠はないそう。かずらという、木に絡みつく性と派手な色から、どこか禍々しい印象を持たれたんでしょうかね。
ガイドブックでは花期は7-8月だけれど、すでにあちこちの家のフェンスに咲き乱れているのを見かける。もちろん夏の季語。まあ、6月なら‘狂い咲く’と言うほどではないな。
ところで、“のうぜんかづら狂ひ咲く”と詠んだ場合、季はいつになるんですかね。“狂ひ咲く”んだから、夏じゃないわけで…。
そもそも季語というのは、誰が決めているんだろう。
気紛れに思いたったときにひねるていどの(和歌だと‘腰折れ’っていうけど俳句は?)なんちゃって俳句だから、ま、どうでもいいけどちょっと気になる。
「歳時記」に載っているのが季語、ということらしいが、その歳時記はだれがどう編んでいるのか。‘公益法人 季語選定委員会’なるものがあるようでもなさそうだし。
持っているのは角川の文庫版で、では、世間にはいかなる歳時記が流通しているのか。‘甘損’をひらいてみれば、なんと、ヒットするのはほとんどが角川のものなのだ。すると季語は実質的に角川が決めているのか。でも、ですよ、角川書店なんて、終戦直後に創業した新参の本屋ではないか。
季節を表す言葉というのは大昔からもちろんあって、勅撰の和歌集は‘春の部’~のような部立てによって編まれていて(‘雑’や‘釈教’の部なんかもあるけど)、桜や山吹が詠まれれば春、ほととぎすが詠まれれば夏、に決まっている。
また歌仙(連句)のルールでは春秋は3句、夏冬は2句続けるべしとされているから、季語が決まっていないとはなしにならないわけですね。じゃ、その頃は誰が決めていたのか。
ま、桜が春、というのは誰が考えても異論はないだろうけど、‘ブランコ(鞦韆)’が春なんて、どこのどいつがいつ決めたんだ? でも、意外と作例はあるみたいですね。
鞦韆を下りきて僧の無言かな 加藤楸邨
楸邨がこの句を作った時にはブランコはすでに季語になっていたんですかねえ。それともこれを詠んでから、この句は無季ではない、ブランコは春に決まってらあ!と主張して、ま、楸邨先生がそうおっしゃるんだから…みたいな感じで歳時記に採用されたんですかねえ。
少なくとも、作例が全くない時点でブランコを春の季語とする、と角川歳時記が宣言して、それから俳人たちが作り始めたとは考えにくいですなあ。でも、だったら季重なりだとか無季だとか、鬼の首取ったようにうるさいこというなよ、って気もちょっとしますね。
梅しごと開始。
去年は南高梅は記録的な不作だったらしいけど、ことしは豊作だとか。
5キロ、漬けるぞ。
梅漬けて余りし塩も青々し 百合山羽公