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‘ドリトル先生’の新作が!

 

 なんと、‘ドリトル先生’の新作が…!

 といってもロフティングの未発表作品が発見された、わけではありません。

 生物学者の福岡伸一が、登場人(動)物等をそのままに新たな物語を新聞紙上に連載中。題して『ドリトル先生 ガラパゴスを救う』。

 なぜ生物学者が…?とは、ドリトル先生ファンにとっては、ちっとも不思議ではないのだな。 ☞

 

 福岡は2014年に『-航海記』の新訳を出しているのですね。そもそも彼が研究者を志したのは、幼少のころ読んだドリトル先生に心酔したからだとか。

 その新訳は、かつての子供が大人になってあらためて読み返すためのもの、というかんじに仕上がってなかなかいい。(ロフティングの挿絵もそのまま掲載!)

 場面によっては意訳している井伏鱒二訳の岩波版より原作に忠実を心掛けたらしい。(例えば雨でずぶ濡れのスタビンズを家に招き入れる際に、井伏は日本人の生活習慣を踏まえて“さあ、おはいり。靴なんかぬがなくてもよろしい。”とドリトル先生に語らせているが、福岡訳では“靴はマットで拭かなくていいよ。”となっている。)

 

 子供の頃の本はまずもう手元にないけれど、‘ドリトル先生’だけは2度ほどの引越しでも手放さなかった。

 ‘ドリトル先生’を読んだのは小学3~4年生のとき。奥付を見ると、このシリーズの出版を岩波が始めてまだ1年くらいだった頃のようだ。

 家から5分程度のところに、両の壁と中央の背中合わせの棚があるだけの、今はもうとっくになくなってしまった小さな本屋があって、毎月1冊ずつ‘ドリトル先生’を取り寄せてもらっていた。それが楽しみでほとんど小走りになってその本屋に駆けて行った(ような気がする?)。

 

 今も踏襲されている“本の世界ではじめて試みた特殊ビニール加工の総クロース装”は汚しやすい子供に最適だし(シンプルながら洒落たデザイン、堅牢な造本。装幀としても実に良質な本だ)、その一方で‘陪審員’とか‘舵輪’‘縦走’‘生粋’といった言葉もルビをつけて漢字のまま表記しているのもよいな。

 

 ロフティングは、ドリトル先生の物語をふたりの幼い子供にせがまれて書き始めた。(『不思議の国のアリス』のパターンに似ていますね。)

 博愛とか平等とかの精神がベースになっているけれど、まったく説教臭さがなく上っ面の教条主義も匂わない。ひとえにドリトル先生というキャラクターの人徳によるものだろう。そしてさまざまな登場人(動)物たちも魅力的だ。(個人的には‘猫肉屋’のマシュー・マグ -右端挿絵の人です- がいいな。)

 それから、やはり井伏鱒二の訳が秀逸ですねえ。Dolittle(ドゥ・リットル-何もできない)を簡潔に‘ドリトル’としたのが、まずは最初の手柄。また、登場人(動)物の喋りくちにもなんとも味がある。例えば鸚鵡のポリネシアの弁 ―。

大冒険でしたね。― 昔、密輸入者たちといっしょに航海していたころを、思い出します。― ああ、これが生きがいというものです! バンボ、頭を気にしないでよろしいです。先生がヨジューム・チンキをつけてくださりゃ、すぐなおります。小舟には食糧がいっぱいで、ポケットには宝石がいっぱいです。それにお金もどっさりあります。― え、どうです? 悪くないですね。

 ドリトル先生の弁 ―。

わしは、荷物をたくさん持って歩くのはすかんのだ。ひじょうにやっかいなことだからね。人の一生は短いものだ。荷物なんかで、わずらわされるのは、じつにつまらんことだ。いいかね、スタビンズ君。荷物なんてものはほんとに必要なものではないのだよ。おや、わしはソーセージを、どこに入れといたかな?

 この語り口の影響がまだ残っているのか、 わたくし自身、今でもちょっとした‘事件’に遭遇すると、“これはしたり、スタビンズ君”と呟いちゃったりするのだ。あ、口には出さないで胸の内でですけどね。

 

 ドリトル先生ファンの渇を癒すべく、南條竹則という人が、未訳だった『ガブガブの本』と、ドリトル先生蘊蓄本ともいうべき『ドリトル先生の世界』を上梓してくれてもいる。

 でも、福岡伸一の連載は完結までが楽しみだなあ。なんといっても、‘新作’が出るのはじつに久しぶりのことだからねえ、スタビンズ君!

 ちなみにここでのドリトル先生は‘わし’ではなく‘わたし’だけど、ちゃんと‘これはしたり’とも言っているのだ。

 それから岩渕真理の挿絵も‘すこぶる’素敵だ。単行本にする際には、是非できるかぎりカラーのまま収録してもらいたいものですな!(初回から切り抜いていればよかったなあ !!)