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きょうも、猫村さん - 主役じゃない主人公は翻弄される

 

 後をひく南京豆やポップコーンのように、どういうわけか、ずるずると読み続けさせられてしまう。

 ああ、このペースだと、読み切ってしまうぞ。せめて最後の1冊だけは残しておこう、そう思いながらもページをめくる手はとまらない。

 結局、読み終わってしまい、あげくはほしよりこ作品のありったけを取り寄せることになっていたのだった… ( ̄д ̄;) ☞

 

 起承転結だとか、伏線だとか、プロットなどというものはない。ストーリーが計算されているようすもなく、そうなるべき必然性らしきものもないまま脈絡なく場面は展開する。

 家政婦である猫村さんを取り巻く登場人物は、ことごとくステレオタイプで紋切り型の台詞を吐くばかりだ。

 しかも描画は下書きのラフスケッチような鉛筆描き。こんなマンガの一体どこに惹かれてしまうのか。

 

 奉公先の犬神家の主人は、愛人のいる大学教授で家ではガウンを羽織る。虚栄心のかたまりの奥様は整形やエステに現を抜かし髪を巻き上げている。大学生の長男たかしは就職活動しか眼中になく、Vネックセーターを着ていつもポケットに手を突っ込んでいる。中学生の長女 尾仁子はヤンキーで不良グループの統率が最大の関心事で、シンナーでもやっているかのように頬はこけ目つきはとがっている。

 

 これらの人物に囲まれて、善良でけなげな働き者の猫村さんは、ただじたばたしオロオロさせられる。

  主人公のはずの猫村さんは実は主役ではなく、言わば狂言回し的な役割を担う。なぜなら彼女は家政婦というあくまでも‘お手伝いさん’なのだから。

 猫村さんはアクションを起こす者ではなく、脈絡なくごたごたを引き起す者たちに翻弄される立場なのだ。

 

 典型的な俗物たちのしようもない振舞いにもかかわらず、彼らは皮肉な眼で否定的に描かれてはいない。また逆に特段に温かな眼差しで肩入れされるわけでもない。彼らは淡々とあたり前に受け入れられている。

 これがどちらかにバイアスがかかっていたら、エセヒューマンな、あるいは評論家面めいた、つまらないマンガになっていたのではないだろうか。

 他の作品を見るかぎりでも、ほしよりこの作家としての基本的なスタンスがここに表われているように思う。

 

 ところが、この「きょうの猫村さん」は2016年の第9巻で中断してしまっている。なぜか。

 推測するに理由の一つは、本来、主人公でありながら当事者ではない、というスタンスが崩れてしまったからではないか。

 ここにきて、猫村さんに恨みをもってクビにしようと画策する人物(表奈美)が現れる。すなわち彼女によって猫村さんはストーリーを担う表舞台に押し出されてしまったのだ。

 先にプロットもない展開といったのにはわけがあって、このマンガはネット上で1日1コマ更新される、という形で配信されていた。単行本として出版されたのはのちに評判になってからだ。元々がそんなかたちだから、ドラマチックなストーリー展開には向かない。逆にそれがこのマンガの、ヤマもオチもない不思議な手触りの魅力につながっていたのだと思う。(そして、そんな物語づくりが、ほかの誰にも真似のできないほしよりこ作品の特長のひとつでもあるだろう。)

 ところが、ほしよりことしたことが、つい、このマンガをドラマ仕立ての方向に向けてしまったのだ。1日1コマのペースでこれはいささか苦しいのではないか。中断とはすなわち頓挫だろう。再開は、さて、あるのだろうか。

 

 「きょうの猫村さん」の中断は残念だが、2005年から、並行してカーサ ブルータス誌上で「カーサの猫村さん」が連載されるようになっている。

 同じ猫村さんが、月1回、カーサブルータス編集部に出向いてお手伝いとして働くという設定。

 月刊誌の読み切りだから、こちらのほうは、いちおうオチらしきものはある。

 

 

 やはりお手伝いさんという立場なので、ここでも猫村さんは「きょうの ―」同様、周囲の人間のどたばたのなかであたふた翻弄されたりもする。

 

 だが、しだいに猫村さんは物語の展開の上で‘お手伝いさん’的役割から主役的立場に押し出されていく。

 すなわちお手伝いさんでありながら、現場取材や出張をまかされたり、ファッションモデルになったり、ついには特集企画の編集長になったりする。(マンガの中だけでなく、現実にそのグッズが作られたり展示・販売されもした。)マンガはいつか猫村さんを中心に回り始める。

 

 月刊誌自体とのコラボ的な役回り上そうなったわけでもあろうけれど、猫村さんの人気が上がりすぎて、本来の《地味でダサく泥臭い》キャラクターから、《かわいらしく洗練された》マスコット的ゆるキャラへとシフトせざるをえなくなったということだろう。

 スタート時より、描線もずいぶんまっとうなものになってしまった。

 これはこれでちょっと残念な気ががする。

 

 

 

 ほしよりこは、猫村さんがヒットして本になって売れたのは、“ものすごく意外なこと”で“自分が努力して、積み上げてきたもの”ではなかったから“嬉しくなかった”し、“それを信用”して“この状況を受け入れないといけないのが、その頃はすごく辛かった”と語っている。

 しかし“「猫村さんの人」という呼ばれ方”“それだけではいけないと思って『逢沢りく』を描きました”(「猫村さんとほしよりこ 完全版」p33-34)とも。

 このマンガについて、ほしは“私の最善を尽くした作品”“全力を出し切ったといえる”とも語っている('15.5/22 第19回手塚治虫文化賞授賞式)。

 感情を露わにすること、他者に共感することを自ら封印してしまった少女をめぐる物語。ほしよりことしては、唯一の(?)テーマらしきもの、ストーリーらしい展開のある作品。だが、ここでも描かれた人物たちには、否定も肩入れもされることなくニュートラルな眼差しが向けられている。読者は、この隙間だらけの画によって進められる物語にたいして、それゆえに却っていやおうなく感情移入してしまうことになる。

 

 

 

 単行本は限られたものしかないけれど、「猫村さんとほしよりこ 完全版」には、これまで様々なメディアに載せた短い作品がいくつも収められていて、どれも実に面白い。

 やはりヤマもオチもないのに、つい読まされてしまうのはふしぎだ。この「ツバメ日和」などは3~4羽のツバメが電線にとまって会話するだけのものなのだが、特段漫才的なジョークが発せられるわけでもないのに、会話と絵のテンポ感で読ませてしまう。ツバメだから、表情も身振りもごく限られたものになるはずなのに、これだけの作品にしてしまうのは見事というほかない。

 単行本『B&D』の奥付の作者紹介の記事のなかで、“「何って言いがたいもの」を作りたいと思って取り組み続けている”との本人の弁が記されている。これこそがほりよりこというマンガ家の特長を端的に言い表したものだろう。

 このひとには是非、猫村さんだけでなく、様々な作品を見せてもらいたいものだ。