「この世界の片隅に」のアニメ版を観る。しかも、当初版と、新たに制作された「…さらにいくつもの…」版までも。
語り始めるときりがないので、こうの史代のこの一筋縄ではいかない作品については、こちらをご覧くだされ。
日本人としてあるまじきことに、ジブリ作品さえ一本も観たことがないのになぜ、といわれそうだが、やはり原作の重要なキーパーソンは遊女リンにあって、彼女が絡む部分を省いてしまった当初版はいったいどういうものになりえるのか?また、改めてリンを復活させた「…さらにいくつもの…」版は原作を再現しえているのか興味を持ったからだ(ちょっと懐疑的な気持ちで…)。
ま、そのことについては あちら☝ を見ていただくとして、ストーリー展開の見事さはもとより、この作品の別の魅力は個々のシーンの楽しさだ。
なかでも、すずとリンのガールズトークの場面は好きだなあ。
とりわけリンの表情が実に生き生きと描かれているではありませんか。こうの史代の画力がいかんなく発揮されていますねえ。
(こうのは女の子同士が楽し気に会話する場面を描くのが好きだとどこかで書いていた。デビュー作の「街角花だより」なんかほぼ全編それだものね。)
しかし、そんなふうにのほほんと読んでしまってから、あとになってこれらの一見他愛ないシーンに、実は重要な伏線が仕組まれていたらしいことに思い当たる。
読み返してそれを確認して納得するのは、この作品の大きな楽しみでもあるのだ。
ま、アニメでは少なくともそんな楽しみ方はできないな。(映像はきれいだし、のんはなかなかの好演ですけどね。)
すずが折々に見せる微妙な表情の豊かさもよいなあ。
ネームによく使われる「……」に照応してるようだ。
こうの史代の絵の特徴は、まったくスクリーントーンを使わないことだ。すべて手描き。
それも場面、ストーリーに応じて、筆だったり、鉛筆だったりする。終盤のリンの生い立ちの場面は、テルの遺品の口紅で描かれることが暗示されるが、実際にも口紅で描かれた。
すずが右手を失って“まるで左手で描いた世界のように”“歪んどる”と感じるようになってからは、なんと、実際に背景をぜんぶ左手で描いている。(1年前からこの設定をしていて、左手の練習をしたのだそうだ。)
他の作品、「ぼおるぺん 古事記」ではその題名のとおり全篇ボールペンで、「ギガタウン 漫画図譜」では鳥獣戯画に倣って筆が用いられている。
遊び心ともいえるかもしれないけど、入魂の技、という気もしますなあ。