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マス席独り占め - 大相撲七月場所

  大相撲が変則的に七月場所として国技館で開かれることになった。観客は入れるけれど、ネット予約、しかもマス席は1人のみの定員。

 ふだんはマス席は4人定員だから同好の士を集めねばならないし、だいいちマス席に4人はいささか窮屈なのだ。

 これはチャンスでは。料金はマス席とはいえ、1人分ですむ。それに面倒なネット手続き - コンビニでの発券 となると、お手上げの人も少なくないだろう。案の定、場所はもう始まっていたが、平日の向正面A席をゲット。

  1時過ぎに入る。まだ幕下の取組み中だから、もちろん空席だらけ。でも結局最後までマス席の後ろの方と2階椅子席は空席が目立った。(砂かぶりには観客は入れない。)

 やはりいつもより年寄りが少ないようだ。一方、四股名がプリントされた手拭いを掲げて贔屓の力士を応援する若い女性(“スー女”というらしい)があちこちに。だが、いくらぴょんぴょんと体を弾ませて応援しても、力士はタレントのように手を振って応えてはくれない。それどころか視線さえも向けてくれない。報われない愛にますます萌える思いを募らせる彼女らであった…。

 今回のネット予約では、連番は保証されない。なので一人きりの観戦がほとんど。(愛人を侍らせて― というわけにはいきませんな。関係ないけど。)

 それにしても、マス席でのびのびとストレッチできるとはね!  

 

 けがで序二段まで落ちた宇良。

 幕下まで戻ってきた。両膝のぐるぐるのテーピングが痛々しい。

 でも、動きは俊敏。武将山を翻弄して快勝。かつてのようなアクロバティックな動きはなりをひそめているようだが、がんばってほしい。

 

 照ノ富士。やはり序二段まで落ちた元大関が、ついに幕内に復活。

 ベテランながら動きの速い佐田の海をものともせず圧勝。9日目で勝ち越し!

 花道を引き上げる時にも、ひときわ大きな拍手が(声援は禁じられているので)。

 

 遠藤。

 この人の四股はうつくしいねえ。

 でも今場所は初日に鶴竜に勝ったもののその後不調。肌の張りもちょっとないような気がするなあ。

 しかし今日は元気な隆の勝を一気に押し出し。

 

 カド番の貴景勝。

 今場所もいまいち。どうしちゃったんだ。

 今日の相手は人気の炎鵬。

 落ち着いてよく見て、突き飛ばすように押し出したかと思った瞬間、体をひねった炎鵬にかわされて同時に土俵を飛び出す。

 物言いがつくも、行事軍配どおり、貴景勝の辛勝。

 

 

 土俵入りを終えて花道を戻る白鵬。

 結びの一番も、怪力碧山を問題なく転がす。

 (なぜか、ふとフェリーニの「道」の大道芸人ザンビーノを連想してしまう。)

 

 国技館で観戦していると、テレビなどで見るのとは些か印象が違って、大相撲というのは興行なんだなあと思う。テレビだと、スポーツ番組という感じなんだけどね。

 すると横綱という存在の印象も変わってくる。

 テレビでは単にトップランカーだが、実際の場では興行を支える屋台骨なのだ。

 白鵬という横綱には、正直なところあまり好意的な眼を向けていなかったけれど、やはりつくづく大変な立場だなあと思う。まして、今場所に限らずかなり多くの期間、一人で綱を張ってきたようなものだ。その他の力士は、背負うものは自分だけだ。 

 相撲は、国技だスポーツだという前に一種の芸能のようなものだろう。(勝負が真剣なものではない、という意味ではなく。)そしておおくのローカルな芸能と同様に神事でもある。横綱の綱はただの飾りではない。注連縄である。注連縄は聖・俗を隔てる結界である。すなわち、横綱とは‘神’なのだとは、たしか村松友視がいったことだ。もちろんゴッドやアラーではない。古事記のヤマトタケルやギリシャ神話のアポロンのようなものだろう。

 貴乃花が右膝に大けがを負いながら、その右脚を軸にした上手投げで武蔵丸を転がして優勝決定戦を制した、あの相撲史上に残る奇跡を遂げた後の表彰式で、時の首相 小泉純一郎が“痛みに耐えてよく頑張った。感動した”と言った時、ただの人間の分際で神に対してなんという無礼な口の利き方をするんだと、本気で憤慨したことを思い出す。せめて“感動させていただきました”とくらい言えよ。

 トップランカーである横綱なら、当然勝ち続けることが求められる。だが、神としての横綱にとっては、勝つことは必ずしも必要条件ではない。

 それは、ついに負け越すという屈辱を喫しながら出場しつづけた大乃国、若乃花(3代目)をみれば明らかだ。振り返って、彼らをふさわしからぬ横綱とは誰も思うまい。日本神話・ギリシャ神話の神々は必ずしも完全な存在ではない。

 また、やはり奇跡のような優勝を遂げたあと、怪我をおして出場し無惨に負けつづけた稀勢の里。ついに引退したあと、国技館に設けられた‘稀勢の里コーナー’は大人気だった。いわば、突如出現した‘稀勢の里神社’にファンが大挙して参拝したのである。もちろん、すでに‘稀勢の里’は存在しない。‘稀勢の里’は人々の記憶の中の‘ご神体’である。荒磯親方となったかつての稀勢の里は、いわば‘稀勢の里神社’の宮司でもあろうか。

 求められるのは、神としての物語、すなわち‘神話’なのだ。一旦頂点をきわめながら無惨な姿をさらす。それこそが神話でなくてなんだろう。

 神が、異国から来た人間でいいのか、というひそかな思いは多くの人が抱いているのだろう。(折口信夫が唱えた異界・霊界から来訪する‘マレビト’神とは同列に論じられまい。)そして、そのことを白鵬自身が痛切に感じているにちがいない。

 白鵬がときに見せるパフォーマンス、優勝表彰式での万歳三唱や黙祷の提唱、被災地などへのボランティア的行為は、それに対しての彼なりの承認願望の表われだろう。だが、神は、思われる存在であって、自ら働きかけるものではない。

  国技館の空気の中で、白鵬の負っている辛さがすこし分かるような気がした。神としての立場に祀り上げられながら、根の部分で神として承認されていないのではないか、という思い。

 勝つことが必ずしも神である横綱の必要条件ではないのと同時に、それは十分条件でもない。

 しかし、白鵬にとって、もはや自分が神であることを証明するための残された唯一の手段は、勝ち続けて記録を残すことしかない。かち上げや張り手を、横綱にふさわしくないと批判されようと、勝たねば神ではいられない。文句を言われる筋合いはない。現に自分は、双葉山、大鵬にまさるとも劣らぬ前人未到の記録を達成しつづけているではないか。

 神・横綱としての承認をもとめる行為が、逆にそれにふさわしくないものと見なされてしまう。どこまでいっても空回りする。白鵬の不幸がそこにあるように思う。

 

 横綱という立場に一旦なると、いくら休場しても他の番付とは違って降格しない。ということはすなわち自ら降りることが許されないということだ。(大関であった者でも、力が落ちても番付を下げて力士を続けることはできるが、横綱にはそれが許されない。神が、神でなくなった姿を土俵の上にさらすことは、あってはならないのだ。)

 自ら降りることが許されない ― 。この苛酷なシステムは、どこかあの、天皇という制度と相似するようではないか。

 

◇ 

 観戦後。

 同じ両国の蕎麦屋 穂乃香に。(ほそ川はちょっと気詰まりなので敬遠。)

 でもここも蕎麦屋じゃなくて“蕎肆”なんて気取って名乗ってますなぁ…。

 

  人気店でも、コロナの影響で客はカウンターに常連が1人とテーブルに2~3組のみ。だけどカップルばかりだぞ。

 店内にはジャズが流れ、そうかここはデートスポットだったのか?

 でもおかまいなくひとりまったりと相撲の余韻を楽しみました。

 蕎麦もまずまず、かな。