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最後の文士、石川淳

 石川直樹が石川淳の孫だってことを書いたら、石川淳のことをとても書きたくなった。

 はたち前後に、もっとものめりこんだのは、石川淳と澁澤龍彦だった。

 太宰や安吾、織田作とともに戦後の無頼派、なんていわれるけど、ちょっと違う。  ☞

 この人はフランス文学(ジッドなどの翻訳もある)、漢文学、江戸文学の深い素養とともに、反骨と洒脱な精神を持った実に粋な人だ。大戦中、世におもねることなく、“ 江戸に留学していた ”と嘯く。その格好良さは端的にその文に表われる。

 國の守は狩りを好んだ。小鷹狩、大鷹狩、鹿狩、猪狩、日の吉凶を選ばず、ひたすら鳥けものの影に憑かれて、あまねく山野を駆けめぐり、生きものと見ればこれをあさりつくしたが… (「紫苑物語」)

 佐太がうまれたときはすなはち殺されたときであつた。そして、これに非情の手を下したものは父親であつた。(「荒魂」)

 まづ水。その性のよしあしはてきめんに仕事にひびく。江戸府内のことにして、谷中三崎か浅草堀田原あたりのみずならば京の水にもめつたにおとらない。(「至福千年」)

 この人の文体にはしびれたなあ。高校の時、岩波の森鴎外全集のパンフレット*に載せた推薦文がまた格好良くて、暗誦したくらいだった。たしか書き出しが、『易に云ふ。飛龍天に在り。至人を見るに利有りと。この卦かならずしも先傑宗代の余徳を伝へたるのみにはあらざるべし。』うー、かっけー!

 それから、盟友たちへの追悼文がつくづくよかった。「太宰治昇天」、「安吾のゐる風景」。

 そしてあの「敗荷落日」。

 私淑した荷風が、晩年に無様な姿をさらして死んだのを、歯ぎしりするようにして罵る。

 一箇の老人が死んだ。通念上の詩人らしくもなく、小説家らしくもなく、一般に藝術的らしいと錯覚されるやうなすべての雰囲氣を絶ちきつたところに、老人はただひとり、身邊に書きちらしの反故もとどめず、さういつても貯金通帳をこの世の一大事とにぎりしめて、深夜の古畳に血を吐いて死んでゐたといふ。

 すさまじい引導だ。手本のようにして敬愛した荷風だからこそ、その死にざまは許せない。地団太を踏むような文から、石川淳のくやしさがにじみ出る。歯が抜けたら、写真にうつして見せるまえにさっさと歯医者に行け。

 荷風の精神は戰争に依る断絶の時間を突つ切るには堪へなかつたのかも知れない。かくのごとくして、明治以來の、系譜的には江戸以來の、随筆の家はがつくりつぶれた。

 そして、この訣別の言葉は、返す刀となって自分自身にふりかかってくる、という覚悟を彼は当然のこととして受け止める。半端な留保はない。(石川夫人は石川の死の直前の様を次のように記している。“ちょうどその頃、「すばる」誌に「蛇の歌」を連載中でもあった。この月、最後に書いた原稿は八枚半であったが、入院する前の日まで、、苦しい息を吐きながら原稿用紙に向かっていた。これが石川の絶筆となった。〈石川活「晴のち曇、所により大雨 -回想の石川淳」〉”)

 石川は「敗荷落日」を次のように締めくくっている。

 日はすでに落ちた。もはや太陽のエネルギーと縁が切れたところの、一箇の怠惰な老人の末路のごときには、わたしは一燈をささげるゆかりもない。 

 すごいですねえ。

 石川淳の著作は、今も我が家の書棚の最上段に並んでいる。

 

* 23.5/24:: 押入れの段ボール箱から、このパンフレット(1971年)が出てきた。若干の記憶違いもあったのであらためてその前-後段を転記する。

  禮樂の門 石川淳

 易にいふ、飛龍天に在り、大人を見るに利ありと。この卦かならずしも先王治世の徳をさしていへるのみには非ざるべし。古來、天に星うごいて、藝林ときに至人あらはる。鴎外森林太郎先生、稟賦もとより俊爽、明治開化の盛運に逢つて、その才學の事に發するところ、弱冠はやくも杏林に入つて人を醫するにとどまらず、廣く詩文の場に出でては、前代の末流のみだれたるを撥め、海彼の新聲のゆたかなるを取つて、一たび糺せばすなはち一代の大宗、雲したがひ、風したがひ、萬物ここになびく。すでにして、世界あらたに立つ。文苑豈禮樂なからんや。…(中略)…ここに鴎外全集三十八巻、新版をおこして江湖に弘むといふ。禮樂の門、ふたたび開かれたり。この門や、もとこれ野人を招くためにあり。當世造反の青春、よろしくこのところに來たつてたたかひを挑むべし。もしその間に發明の妙機をうることあらば、今日のよろこびとなすべきのみ。