櫛はわたしにひろわれしのみ ― 永井陽子の短歌
永井陽子が短歌に託そうとしたものはなにか。
永井陽子の短歌については、“歌から〈私性〉がほとんど完璧なまでに払拭されている…(永田和宏)”、“私生活を排した童話や物語のような詩世界。(松平盟子)”という評がほぼ定着している。また、彼女自身も次のように記す。
だれもがなんらかの形で〈私〉や〈現実〉や〈社会〉に深くこだわっていた。…作品の内に作者そのものの姿を求めてしまう創作や鑑賞の方法…自我と密着せざるを得なかった近代短歌の方が、和歌史の中ではむしろ特殊な部類ではないだろうか。(「モモタロウは泣かない」)
たしかに、次のような永井の代表作をみれば、その評は一見あたっているようにも見える。
ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ
〈「なよたけ拾遺」S53('78)〉
貝殻山の貝殻の木が月光にぬれてゐることだれにも言ふな 〃
べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊〈「樟の木のうた」S58('83)〉
あはれしづかな東洋の春ガリレオの望遠鏡にはなびらながれ 〈「ふしぎな楽器」S61('86) 〉
だが、永井陽子のうたが、はたして私性を完璧に払拭し、私生活の影を排したものだったかどうか。永井の存在を一躍クローズアップさせた第2歌集「なよたけ拾遺」には、上梓の数年前の父親の死を踏まえたと思われるうたが散見される。(永井はエッセイのなかで、自分が両親の晩年の子で、子供の頃、学校から帰ると父か母の葬式が始まっていたという夢を幾度となく見た、と書いている。)
逝く父をとほくおもへる耳底にさくらながれてながれてやまぬ
さみどりの黄泉のみづかげふりかへりふりかへりゆく父は旅人
田に遊び野草に遊ぶ神の背が父に似てゐる やがてさみだれ
わたくしを呼ぶ父やもしれず両耳を歩ますほどの月あかりなり
父は天にわたくしは地にねむる夜の内耳のあをい骨ふるへつつ
空へかへる父が抱きてゆきしかな虫のたましひ樹のたましひも
さらに次の第3歌集「樟の木のうた」にも ―。
暮れなづむ駅舎の真上あれは父が死の辺に見たるゆふがほの天
みづびたしの天を歩みてかへりゆく父の背のすぢにほふ樟の木
世をわかち父が呼ぶこゑ六月の月なき夜に樟の木にほふ
これらは、永井の父へのひそかな挽歌でもあっただろう。だが、こうしてまとめてみてはじめてそんな側面が見えてくるものの、全体にファンタジックなトーンの歌集のなかにばらばらに散りばめられると、これらのうたもまたフィクショナルな詩物語と見えてくる。なぜ彼女はこれをまとめずに、挽歌としての性格を前面に出そうとしなかったのか。
永井陽子が23歳で最初に上梓した「葦牙」は句歌集である。そのあとがきに "俳句は一生続けられる。…だが短歌は…。" と記している。それでもその後、彼女が選んだのは短歌だった。
永井陽子の自意識は、等身大の自分を露わにしてしまいたくなかったのだろう。だが、それと背中合わせに、うたのなかに自分を解放したいという思いもあったはずだ。(永井は、沖ななも・河野裕子、道浦母都子との討論で、道浦に相聞歌(恋の歌)があまりないことを指摘され、“髪振り乱すことが恥ずかしくてできない”と答えると同時に“わからないようにつくったの”ともいっている。〈「〔同時代〕としての女性短歌」中の『討議〔時代〕の中の女性短歌』〉)
俳句は、自分をついうっかり晒してしまうことの歯止めとしては、伝統・定型・様式のしばりが緩すぎる。逆に、秘かに思いのたけを込めようとするには、その詩形はあまりにコンパクトにすぎる。俳句によって、虚構の世界に遊び、生きることはできない。
うたの世界だけに生きていけたら、どんなにかいいだろう…。「なよたけ拾遺」の巻末には、『式子内親王-その百首歌の世界-』と題された小論文が付されている。百首歌というあらかじめ設定された題詠に依って作歌する。“恋の実体はどこにもない。在るのは、恋によせるこころのみである。”しかし、“そこに確かに「私」は在る。確かな恋の文学空間に立つ「私」が在る。”虚と実が奇跡的に一体となった式子内親王のように、虚構のなかで「私」を生きる。実生活の中の現実さえ、一旦それを虚構のなかに取り込んであらためてうたにする。それこそが永井陽子の求めるものだったろう。
ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ
‘言葉’を、わたしは拾いあつめていく。わたしは‘言葉’だ。わたしは‘うた’だ。どんな現実も‘うた’に回収してみせる。このうたはそんな永井陽子の矜持が込められてはいまいか。
だが、短歌は、様々な制約をもって虚構を強いると同時に、反面で感情の述懐を誘うという二面性を持つ。現に短歌は、式子内親王の後、定家を経て“なきことをもあるやうに”という二条派と“心にまかせて思ひ思ひに”という京極派に分断されたではないか。虚構を虚構として守りつつ「私」を生きることを、はたして全うできるだろうか。現代には、百首歌のようなセットメニューは存在しないのだ。
「なよたけ拾遺」のあとがきに彼女は次のように記している。
…抱きつづけたもの呼びつづけたものをひとつの世界として提示する以外、私は私の存在を確かめようがありませんでした。そのことのみは、生涯、人にゆずることはできないと思います。かつて「短歌は青春の文学である」と言った無謀への返礼を、これから長く受けていくことでしょう。
現実は容赦なく‘うた’に浸食してくる。父の死をうたったときのようには、いかない。母の病と死、仕事上の不如意…。自らも病んで、しだいに現実とうたとがせめぎ合うかのような様相を見せはじめる。すなわち、うたは、言葉の世界と現実の世界とに引き裂かれ、そして性格の違う二つの歌集が編まれることになる。まず、五十音順に作歌してあくまでも言葉の世界に遊ぼうとした 「モーツァルトの電話帳〈H5 ('93) 〉」。
ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり
比叡山おばけ屋敷はいまもあそこにあるのだらうか なう 白雲よ
んがんがといつまでつづくものがたり風吹きすさぶ東国の夜を
そして、同時期に詠まれていたものの“どちらかというと私性の強いこれらの作品を人目に曝すだけの決心がつかないまま、稿は手元にねむって二年を越した。(あとがき)”という「てまり唄〈H7('95)〉」。
母がめそめそ泣く陽だまりやこんな日は手鞠つきつつ遊べたらよし
こころねのわろきうさぎは母うさぎの戒名などを考へてをり
ぎゆるぎゆると風が巻き上げゆく雲を見上げてをりぬ どうにもならぬ
現実はさらに永井陽子を追い詰める。ついに遺歌集として編まれることになってしまった「小さなヴァイオリンが欲しくて〈H12 ('00)〉」には次のようなうたが姿を見せる。
父を見送り母を見送りこの世にはだあれもゐないながき夏至の日
ここに来てゐることを知る者もなし雨の赤穂ににはとり三羽
ひとの死の後片付けをした部屋にホチキスの針などが残らむ
いまいちどすず風のやうな歌書かむ書かば死ぬらむ夏来るまへに
そしてノートに残されていたという遺歌集の掉尾に掲げられたうた ―。
流れたる歳月にしていつまでも美しからずわが言葉さへ
これ以上、ながらえば、うたはうたにならなくなってしまう、彼女はそんなふうに思ってしまったのか。
永井陽子がこの世を去ったのは、夏よりもずっと前、1月の下旬のことだった。
◇
第一句歌集「葦牙」のあとがきに永井は次のように書いている。
青春以外のものを短歌にたくせるか。青春からはずれた時経た魂が、気のとおくなるような連続のうえにさらに新しい連続を繰り繋いでいかれるか。残骸としての作品は許さぬ。だから自らへ向けて叫ぶのだ。「短歌は青春の文学である!」そして絶句する。
その「葦牙」の巻頭に掲げられた句 ―。
いまだ幼く ここは盛夏の切り通し
切り通しを抜けて、永井陽子の魂は、眩い陽射しのもと歩み去ることができただろうか。
[20.12/30]