わたしを見つめるわたし―小暮はな「AZUL」

 

小暮はなのうたには二人のわたしがいる。

 

 『朱く揺れてる 朱いさかな あれはわたし 小さなわたし(「朱いさかな」)』
 『白く歳をとって わたしの魂は 飛んでゆく あの川の向こうへ(「タンポポのように」)』
 『これ(それ)がわたし』、『この川の向こうへ』ではない。『あれはわたし』、『あの川の向こうへ』だ。朱く揺れてるわたし、飛んでゆくわたしを、隔たった場所からもうひとりのわたしが見つめているのだ。
 『どこへゆくのか だれにもわからない』『いつかどこかで わたしの魂は 黄色い花 咲かせてるだろうか』
 ひとごとのように淡々と、そしてわがこととして切々と、透きとおった歌声が響く。

 

 ほとんどが自作のなかで、金子光晴の詩になる「おかっぱ頭」。
 終戦直後のことか、13歳の浮浪児の娘が勝手に家の袋戸棚に入ってきたりする。あどけなくもあるが、残酷な摂理のようにして小娘にも初潮が訪れ『恥ずかしそうな ちっちゃな乳首が 沈丁花のつぼみのように におう
 作曲したフォークシンガーのひがしのひとしがこのうたをどのようにうたったかは分からない。だが、憐憫と冷徹がない交ざった観察者の視線を投げる詩人と、小暮はなの立ち位置は明らかに異なる。
 『礼儀作法を教わらないので…ただ天真にふるま』って、窓から放り出されるこの寄る辺ない小娘、無防備なまま世界に投げ出されているこの小娘は、小暮はな自身だ。あれはわたし 小さなわたし。
 うたう彼女は、一方で小娘に視線を投げる者であり、同時に視線が投げられる小娘でもある。わたしはわたしを見つめるしかない。薄っぺらな同情や安っぽい感傷に足を取られまい。目を凝らしながら決して涙は見せまい。意を決したように、小暮はなはこの歌を一気に駆け抜ける。

 

 “見つめられるわたし”と“見つめるわたし”は、様々なかたちで変奏される。

 たとえば、バーのカウンターらしき席で、若い娘(おまえ)が酔った初老の男(おれ)に絡まれるように繰り言を聞かされる哀しくもユーモラスな「MOJITO」。
 そして冒頭に置かれた「アンドリーニャ」。
 抗しがたい自然の摂理にいざなわれる燕のように放れていったおまえ。
 だが、春がくれば燕は戻ってくるだろうか。
 『呼んでみるよ おまえを呼ぶよ おれを忘れてしまわぬよう』。なすすべもなく、おれはただ虚空に呼びかけることしかできない。
 おまえとは、実に、おれの眼差しを借りてかたられるわたしのことなのだ。

 甘ったれた感傷やいい気な自己撞着はない。
 生きていれば避けることのできない哀しみが、澄んだまなざしで見つめられているだけだ。

 

 

(17.7/18 記)