おごり百人一首 ― をぐら百人一首ってなに?

 

 

 身の程知らずにも、我流の百人一首を編纂する。

 藤原定家の撰になる「小倉百人一首」のほかにも、百人一首と称するものはいくつかあって、対象年代を異にするものあれば、「小倉-」の撰をよしとせず独自の編纂をしたものもある。

 たしかに、「小倉-」のなかには、定家ともあろうものがなんでこんなうたを選んだのか、甚だ疑問に思うものがいくつもある。(“あひみてののちの心にくらぶれば昔はものを思はざりけり”― どこがいいんだ、これ。)

 定家は秀歌を撰んだのではなく、後鳥羽院の呪詛を鎮めるうたのジグソーパズルをつくったのだ、という、それだけ聞けばとんでもない織田正吉の説(「絢爛たる暗号-百人一首の謎をとく」)はどうしてなかなか説得力があるものだし、それでなくとも定家は秀歌撰とは別のなんらかの意図をもって「小倉-」を編んだのだと、どうしても思いたくなる。(例えば、御子左家に伝える実用的なマニュアルとして ―とか。)

 

 「小倉-」をもっとも激しく難じたのは、定家を称揚してやまない塚本邦雄である。塚本は“「小倉百人一首」が凡作百首であることは、最早定説になりつつあると言つてもよからう。”と断じたうえで、同一歌人の、彼がこれぞ代表作とする別のうたを撰んでみせた(一首しか伝わらない阿倍仲麻呂と陽成院は除いて。「新撰 小倉百人一首」)。

 塚本のように表だって定家を貶してはいないが、丸谷才一も独自の百人一首を編んだ(「新々百人一首」)。“王朝和歌の全史を示したいと願った”として、室町の正徹、心敬、肖柏まで足を伸ばしているが、主だった歌人は「小倉-」と重なる。

 

 塚本邦雄、丸谷才一のような泰斗に伍するなど、とんでもないことだが、やはり自分の嗜好というものはあって、必ずしも彼らの選んだうたが最上とは思えないこともある。また、天智、人麻呂あたりから始まるのなら、なぜ額田王が入らないのか、も不満である。

 だが、浅学のかなしさ、好みの百首を挙げるのは容易でも、百人の歌人を推すのは至難だ。藤原の何々など、誰が誰やらちっとも見当がつかない。

 そんな苦し紛れの事情も含めて、この‘百人一首’では古代から現代までを対象とすることにした。前半50首が古事記から江戸、後半の50首が明治から現在である。もちろん、自己満足以外のなにものでもない。

 

 

 

01

                 たた              こも

倭は 国のまほろば 畳なづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし

倭建命 (古事記)

 2c前後?       

  (夜麻登波 久爾能麻本呂婆 多多那豆久 阿袁加岐 夜麻碁母禮流 夜麻登志宇流波斯)

 死に瀕した倭建命が大和を讃える望郷のうた。短歌の形にまだなりきっていないけれど、それに向かうかのような、不思議に魅力的な韻律。定型を志向する歌の姿が、国造りの歩みと重なるように思うのは穿ちすぎだろうか。

 

 

 

02

うるは              かりこも

愛しとさ寝しさ寝てば刈薦の乱れば乱れさ寝しさ寝てば

きなしのかるのひつぎのみこ                .

木梨軽太子 (古事記)

5c?                

 同母妹(伊呂妹)の軽大郎女に“姧(たは)けて”詠ったうた。まあ、身も蓋もないほどの狂おしさだ。“乱れば乱れ”は“(噂で)人々が離れていく”と解する註釈もあるが、“(寝ることさえできたら)ふたりが離れ離れになるならなってもよい”と解すべきだという。また、ふたりの間柄から勘案してあるいは歌垣の歌かもしれない、とも(土橋寛「古代歌謡全注釈-古事記遍」)。

 

 

 

03

       け

君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つにはまたじ

かるのおおいらつめ / そとおりのいらつめ   . 

  軽大郎女(衣通郎女) (古事記)

5c?                 

 上記のうたの後、伊予に流された木梨軽太子を慕って詠ったうた(“故(かれ)、後に亦、恋ひ慕ふに堪えずして追ひ往きし時に、歌ひて曰く…”)。そのうたのとおりに軽大郎女は伊予まで太子を追っていき心中する(“即ち共に自ら死にたまひき”)。 
 このうたは万葉集では磐姫皇后(いわのひめわうごう)の次のようなうたになっていて、当然ストーリーもまったく別物になる。
  君が行き日(け)長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ     〈万葉2-85〉
 こちらもいい。どちらがいいとも言い難い。

 

 

 

04

                       こころ

三輪山をしかも隠すか雲だにも情あらなむ隠さふべしや

ぬかだのおおきみ                                

額田王   〈万葉1-18〉

7c            

 飛鳥から近江への遷都に際して詠われた長歌に付された反歌。長歌の五七調のリズムをそのまま引き継いだ二句、四句切れの音律からは額田王の切迫した息遣いが伝わってくるようだ。額田王は宮廷歌人というべき立場の人でもあって、このうたも神鎮めの勅命に応じて公式行事の一環として詠われたはずではある。
 代表作として愛誦される“熟田津(にぎたつ)に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな(万8)”は新羅出兵にあたって天皇になり代って士気を鼓舞するべく詠ったものだし、“茜草(あかね)さす紫野ゆき標野(しめの)ゆき野守は見ずや君が袖振る(万20)”も実は薬猟の宴席に際してこれを盛り上げる遊びのうただったというのが通説だ(折口信夫は“宴会の座興を催した歌”と述べている)。
 だが、この三輪山のうたは、そんな宮廷歌人という公的な立場を超えて、さらに額田王の個人的な感情が吐露されているようだ。三輪山は大和を代表する特別な山であり、現在でも山自体が神体で信仰の対象なのだという。その三輪山を離れ(見放-みさけ-)ていくのは額田王自身にとっても畏れと哀傷をともなう痛切の思いだったのだろう。
(余談ながら、“茜草さす”のうたで、折口は‘野’に‘ヌ’とルビを振っており、‘ムラサキヌユキ、シメヌユキ、ヌモリハミズヤ…’と読んでいる。是非はともかくたった一音の違いでこの音律は実に心地よく感じられる。)

 

 

05

        しな             かど

夏草の思ひ萎えて偲ふらん妹が門見む靡けこの山

柿本人麻呂   〈万葉2-131〉

7-8c                                            

 このうたは実は短歌ではない。長歌の末尾の五七五七七部分なのだ。だが、あまりにも見事に短歌の体を成しているので、すっかり長歌に付された反歌だと思い込んでしまっていた。長歌の五七のリズムが突然ここで変調する。あるいはこの前で長歌は終り、ほんとうにこれは反歌だったのではないか、口伝え、筆写するうちに誤って定着してしまったのではないか、などと突拍子のない妄想も浮かぶ。“靡けこの山”というのがすごい。 貫之の仮名序にいう“あめつちをうごかし、めに見えぬ鬼神をも、あはれとおもはせ”とはまさにこのことだろう。また“思ひ萎えて偲ふらん”の‘シ’音の畳みかけもいい。勝手に人麻呂の代表作ということにする。

 

 

 

06

            あしび

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに

おおくのひめみこ                                    

大伯皇女 〈万葉2-166〉
661-701                                  

 謀殺された弟の大津皇子を悼んだうた(“大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に大来皇女の哀傷(かな)しみて作らす歌”)。大伯皇女が万葉集に残した6首はすべて大津皇子を思って詠ったもの。万葉集には儀礼的に大げさな言い回しが多々使われるが、大伯皇女のこのうたにそんな誇張は感じられない。‘馬酔木’という地味な花に託した思いが切ない。万葉で‘馬酔木’が詠まれているのは10首のみで、決して紋切り型的なイメージが託される花ではないのだ。(萩137首、梅119首、桜42首。)

我が背子を大和にやると小夜更けて暁(あかとき)露に我が立ち濡れし
ふたりゆけど行きすぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ
神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに
うつそみの人なる我れや明日よりは二上山を弟背(いろせ)と我(あ)が見む

 

 

 

07

 あ

我を待つと君が濡れけむ足引の山の雫にならましものを

いしかわのいらつめ                                  

石川郎女 〈万葉2-108〉

7c                                            

 大津皇子のうた(あしひきの山の雫に妹待つと我立ち濡れぬ山の雫に)への返し。皇子が郎女の家の門口に立って待ったがついに入れてもらえず、山の雫に濡れてしまったよ、というのに、このうたの語句をほとんどそのまま取り入れて“それならわたしはその山の雫になりたかったわ”とはぐらかえしたのだという。(折口信夫は“老獪な口ぶりで人を悩殺する歌と云ふべきだ”といっている。「口譯万葉集」)
 ところでこのうたは前記大伯皇女が大津皇子を思ってうたった「我が背子を…暁露に我が立ち濡れし」のすぐあとに出てくる。大津-大伯の悲劇に対するパロディとしての‘喜劇的息抜き’であり“あまりに悲惨なカタストロフィとのつなぎに、一種の相狂言としてこのような一齣が挿まれたのではないか”という説がある(山本健吉「万葉秀歌鑑賞」)。そうだとすれば、うーむ、やりすぎ?いや、なかなかやるな…?か、大伴家持。                     

 


  
08

いは     たるみ       さわらび

石ばしる垂水のうへの早蕨の萌え出づる春になりにけるかも

しきのみこ                                              

志貴皇子 〈万葉8-1418〉

 ?-716                                        

 万葉集巻8の巻頭歌。和歌史上もっとも有名なうたのひとつだろう。
 このうたを手本として、現代に至るまであまたの歌が詠まれた。これを本歌としたものとしては、
   岩そそく清水も春の声たててうちや出でつる谷のさわらび   藤原定家
   雪きゆる垂水のうへは萌えそめてまだ春しらぬ谷のさわらび  堯孝
 だが、題材よりも、このうたが後世まで人々の心に沁みとおっていったのは、情景を「― の ― の」と重ねてゆく手法、そして結句を「なりにけるかも」とおおらかに結ぶうたの姿によるところが大きいのではないか。前者を踏襲した近代にいたっての例としては、
   ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲     佐々木信綱
 また、後者の例としては、
   高槻のこずゑにありて頬白のさへずる春となりにけるかも  島木赤彦
 などがある。しかし、これらの名歌とされるうたと比べても、志貴皇子のこのうたの魅力は抜きん出ている。なぜか。
 「懽(よろこび)の御歌」という題詞が示すように春を愛でるおだやかな語調だが、仔細に見れば、初句、二句には「い」「ば」「た」とむしろ硬い音が並ぶ。そして三句以降の冒頭が「さ」「も」「な」というやわらかな音で、それ以外の部分もカ行・タ行のような破裂音は少なくなる(皇子の「春の」と赤彦の「春と」の違いは大きい)。
 そしてその流れは音感上にとどまらない。
 助詞「の」によって情景を重ねるのだから、そのうたのイメージは静的なものになりそうである。現に信綱のうたは、カメラを徐々にズームアップしていき、見事な一幅の名画を浮かび上がらせるかのようだ。だが志貴皇子のうたにそのような鮮明な静止画像的なイメージは浮かばない。
 まず提示されるのは「石ばしる垂水」、岩にほとばしる滝。ここで動的なイメージが現れる。そして次の「早蕨」は一見静的な映像とも思えるがそうではない。「早蕨」は「萌え出づる」のである。
 すなわち、この歌は、初めに“岩にほとばしる滝水”という語感的にも硬くまた激しい動的なイメージからスタートして、“蕨が芽吹いていく”というおだやかに進行する微かな動的イメージに移行し、最後にその春が啓いていくさまを「なりにけるかも」と言祝ぐ詠み手の静かな眼差しに収斂する。語感上の推移、イメージ上の推移が見事に重なって、このうたは稀有な名歌となったのだ。
 (ところで志貴皇子のこのうたは新古今にも採られている。ただし次のように改悪されて。
   岩そそぐたるみのうへの早蕨のもえ出づる春になりにけるかな
 わずかな違いで、このうたの魅力はおおきく損なわれてしまった。こちらが後の世に流布しなかったのはさもこそあれというべきだろう。)

 

 


09

                          ゑ

青山を横ぎる雲のいちしろく我と笑まして人に知らゆな

おおとものさかのうえのいらつめ                                  

大伴坂上郎女      〈万葉4-688〉

7-8c                                                     

 みんなにばれちゃだめよ、といいながら、どうしてそういううたがおおっぴらになるのか。額田王の“あかねさす…”がそうだったように、これらはなかば公然の演技的ふるまいであって、はなしのネタを提供するくらいのサービス精神の所産だったのだろうか。

 

 


10

             たづ  よそ

闇の夜に鳴くなる鶴の外のみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに

かさのいらつめ                                    

笠郎女  〈万葉4-592〉
8c                                        

 笠郎女のうたは万葉集に29首、ことごとく“大伴家持に贈る歌”との題詞がついている。とりわけ巻四の24首は家持への熱烈なラブコールが連なり、最後には成就しなかった恋の吐き捨てるような怨み言で終わる(“相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後(しりへ)に額付くごとし”)。さながら笠郎女のモノローグで綴られる失恋ドラマを見るようだ。一方の家持は彼女が好みでなかったのか(女の深情けにいささか辟易とさえしていたのか)、巻四は相聞の巻なのにこの求愛に応えることはなく、これら一連のうたのあとに、関係が決着したことをふまえた木で鼻をくくったような2首を載せる(“なかなかに黙(もだ)もあらましを何すとか相見初めけむ遂げざらまくに”)。

 ところでこのような編集をしたのはほかならぬ家持なのである。俺ってこんなにもてるんだぜと自慢したかったのか、女としての魅力はなかったけれどそれはそれとしてうたは優れたものだったのでここに披瀝する、ということか。
 (しかし万葉集には“紀郎女、人を恨んで作った歌三首”とか、“大伴坂上郎女の男を恨んだ長歌併せて短歌”などと題されたうたが出てきて、まあ、この屈託のなさが万葉の魅力でもあろうか。)

 

 


11

    くれなゐ         したでる

春の苑紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ乙女

大伴家持 〈万葉19-4139〉

 718?-785                                      

 変わったな姿のうただ。このようなうたは他にあるだろうか。もちろん体現止めのうたは普通にあるけれども、それは終句に向かってつらつらと修辞を重ねたうえ着地する。このうたは「春の苑」「紅にほふ桃の花」「下照る…乙女」と体現止めが三つ重なるのだ。もちろんこの三つは有機的につながっているから、ばらばらの印象にはならないのだが。

 なお、このうたの題詞に“春の苑の桃李の花を眺めて作る”とあって、すなわち家持は桃の花を見ているだけで、乙女というのは彼の妄想なのだ。

 (…と書いたのだが、“紅にほふ”を連体形ではなく終止形ととる解釈もあるようだ。折口信夫はここで句点を打っている(「口譯万葉集」)。だが、同じ巻19の少し後の、家持の同趣の長歌では次のようにうたわれている。

桃の花 紅色に にほひたる 面輪のうちに 青柳の 細き眉根を 笑みまがり 朝影見つつ 乙女らが …(19-4192)

 すなわち、”紅にほふ”のは”桃の花な”のだ。どーだ、折口信夫!ととんでもなく不遜な怪気炎を上げかけたのだが、折口はこの部分を次のように訳している。

桃の花のやうな、紅色にほんのりと、色著いた顔の上に、青柳の葉のやうに細い眉毛を、惚々と上機嫌で…娘達が…

 となると、”紅にほふ”のは”乙女”なのか。では、二句切れもありか。うーむ、さすが、折口信夫…。

 だが!肝心の短歌を折口は次のように訳しているのだ。

春の庭、其処に紅色に咲きだした桃の花、其木蔭が、明らかに輝いて居る道に、家を出で立つて居る娘よ。

 なんだ、これじゃあ三句切れじゃないか。どっちなんだ!?

 ― 結論。どっちでもない。家持は何句切れかなど意識しないで詠んだ。また、”紅にほふ”のが何にかかるか、などもあまり考えなかったのではないか。長歌の”桃の花”の部分も後に出てくる二上山にかかる序詞なので、蚕が糸を吐くように蜿々と修辞を重ねていて意味も曖昧だ。いかに言葉を連ねていくか、が少なくともこの長歌、そしてそれに前後してつくられたであろう短歌の眼目だったので、家持自身ほとんど文脈的な意味は意識してなかったのではないか。

 ちなみに、小野寛は次のように、二句切れとも三句切れとも取れるように訳している。けだし、この曖昧さを斟酌してのことか。(「大伴家持」)

春の庭がくれない色に照り輝いている。それは桃の花。その木の下の赤く照り映えている道につと立ちあらわれた紅に染まった美しい乙女よ。)

 

 

12

 

山風にさくら吹きまきみだれなむ花のまぎれに立ちとまるべく

遍照   〈古今394〉

816-890                       

 紀貫之が古今和歌集の仮名序で評した6人がのちに六歌仙と称されることになったわけだが、貫之は決してここで褒めてはいない。それどころか、小野小町を除けばかなり辛口だ。遍照についても“哥のさまはえたれども、まことすくなし”と断じている。(大伴黒主などは“そのさまいやし”とさえいわれているのだ。)なぜこの評がもとになって‘歌仙’と称えられるようになったのか、不思議である。

 小倉百人一首の“天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ…”などもくだらないうたとしか思えないが、しかしこのうたはいい。詞書に“雲林院の皇子の舎利会に山にのぼりて帰りけるにさくらのはなのもとにて詠める”とある。亡くなった親王の法会からの帰り道、その別れを惜しんで自分を立ち止まらせるべく、行く手を見失わせるほどに桜が散り乱れてほしいというのである。

 

 

13

 

月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして

在原業平〈古今747/伊勢物語〉
825 - 880                 

 古今集巻15(恋哥5)の巻頭歌。だが、なぜこれが恋のうたなのか、このうただけでは、さっぱり分からない。これには長い詞書がついている。思いを寄せていた女性(二条后高子)が他所に隠れてしまって便りをすることもできず、その翌年、梅の花盛りで月も美しく照る夜に、その女性がかつて住んでいたがらんとした板敷にうつぶして詠んだ。― なるほど。

 現在ではその二条后のサロンでつくられたフィクションだという説が有力だそうだが(

中野方子「在原業平」)、フィクションだろうが、また恋のうたであろうがなかろうが、それを度外視しても、いいうたである。

さくら花散りかひくもれ老いらくの来むといふなる道まがふがに  〈古今349〉
寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなりまさるかな 〈古今644〉

 

 


14

 

君や来し我や行きけむ思ほえず夢かうつつか寝てか覚めてか

読人不知〈古今645/伊勢物語69段-恬子内親王?〉

9c                              

 これにも詞書がついている。“業平の朝臣の伊勢の国にまかりたりける時、斎宮なりけるひとにいとみそかに逢ひて、またのあしたにひとにやるすべなくて、思ひをりけるあひだに、をんなのもとよりおこせたりける” 。― このうたの次に業平の返歌が載る。

かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人(よひと)さだめよ

              (伊勢物語では五句は“今宵さだめよ”)

 だが、ここは業平のうたより最初の贈歌のほうがはるかにいい。斎宮であった人というのも妄想をかきたてるが、[君や来し ⇔ 我や行きけむ] [夢か ⇔ 現か] [寝てか ⇔ 覚めてか] という三段重ねの対置法が、わざとらしいあざとさもなくむしろ一途な心情を鮮明に浮かび上がらせる。

 

 

 
15

 

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせばさめざらましを

小野小町〈古今552〉

 9c            

 小野小町のことはほとんど分っていない。出自も身分も。美人だというのも古今和歌集の仮名序(“いにしへのそとほりひめの流なり”)を誤解したことから広まった。確かなのは古今に採られた18首のみ。実質的にはすべて恋のうたである。
 ちょうど平仮名が成立する頃のひとなので、後期のうたに先駆け的に掛詞・縁語が駆使され、前期にはそれがない。前期と思われる8首中6首で‘夢’を詠っている。それも単に“~という夢をみた”というのではなく、“夢てふもの”とか“あはれてふもの”のように、それらを客観的に観念化して詠っているのが先駆的だという(大塚英子「小野小町」)。
 謎の実像、想像力をかきたてるうたから、様々な伝説が生まれた。驕慢(百夜通いの「通小町」)、落魄(「卒塔婆小町」、「小野小町九相図」)、「小野小町集」というあきらかに後世の作としか思えないものが混じった歌集がいくつも流布していて、小町の作と称するうたは100首を優に超える。
  うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめにき   〈古今553〉
  うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人目をよくと見るがわびしさ  〈古今656〉 
  かぎりなき思ひのままに夜も来む夢路をさへに人はとがめじ    〈古今657〉
  あはれてふことこそうたて世の中を思ひはなれぬほだしなりけれ  〈古今939〉
  花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに 〈古今112〉

 

 

 

16

 

花と散り玉とみえつつあざむけば雪ふる里ぞ夢に見えける

菅原道真〈新古今1695〉

 

 左遷され怨霊となった道真。だが、わが身をなげき京を偲ぶうたは、さすがにその当時の勅撰である古今集には見られない。頻出するのはその後の勅撰集においてである。

さくらばなぬしを忘れぬものならば吹きこむ風にいひつたはせよ  〈後撰57〉

東風吹かばにほひおこせよ梅のはなあるじなしとて春をわするな  〈拾遺1006〉

雁がねの秋なくことはことわりぞかへる春さへなにかかなしき   〈続後撰57〉

草葉には玉とみえつつわび人の袖のなみだの秋のしら露      〈新古今461〉

 

 

 

17

 

秋きぬと目にはさやかに見えねどもかぜの音にぞおどろかれぬる

藤原敏行〈古今169〉

 

 “秋立つ日よめる”との詞書とともに古今集の巻四秋歌上の巻頭に載るうた。時季的な早さのせいもあろうが、うたとしても高く評価されたのだろう。視覚から聴覚への転換というほかにはこれといったひねりもないが、よどみない調べがじつに心地よい。その心地よさ自体がさわやかな秋の訪れにも照応しているようだ。このうたや百人一首のうたに限らず、このひとのうたは妙な力みもなくスマートだ。
  なに人かきてぬぎかけし藤袴くる秋ごとに野辺をにほはす    〈古今239〉
  住の江の岸による波よるさへや夢のかよひぢ人目よくらむ    〈古今559〉   
  つれづれのながめにまさる涙川袖のみぬれて逢ふよしもなし   〈古今617〉

 

 

 

18

 

さくら花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞたちける

紀貫之〈古今89〉

 

 桜の花びらが散って、それが水のないはずの空に波が立ったように見える、というけっこう理屈っぽいなうたのはずなのに、風、水、空、波、が次々に繰り出されてめまいがしそうだ。意味など後回しになってしまう。

さくら散る木の下風は寒からで空にしられぬ雪ぞ降りける 〈拾遺64〉

影見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたる我ぞわびしき 〈土佐日記〉

 

 

 

19

 

衣手ぞ今朝は濡れたる思ひ寝の夢路にさへや雨は降るらん

凡河内躬恒〈〉

 

 

20

 

死出の山越えて来つらむ時鳥恋しき人のうへ語らなむ

伊勢〈拾遺1307〉

 

 死んでしまった宇多法皇との間の子の一周忌に詠んだうた。あの世と現世を往来するほととぎすに亡き子の消息を聞きたいと訴える。

思ひ川たえず流るる水の泡のうたかたびとにあはで消えめや     〈後撰515〉

空蝉の羽(は)におく露の木(こ)がくれてしのびしのびに濡るる袖かな  〈伊勢集〉

 

 

 

21

 

うつつには心もこころ寝ぬる夜の夢とも夢と人にかたるな

中務

 

 

 

22

 

わぎもこが汗にそぼつる寝たわ髪なつのひるまはうとしとや見る

曽禰好忠

 

  妹とわれ寝屋の風戸に昼寝して日高き夏の蔭をすぐさむ
  蝉の羽の薄ら衣となりにしを妹と寝る夜の間遠(まどほ)なるかな
  妹がりと風の寒さにゆくわれを吹きな返しそさ衣の裾
  空を飛ぶをとめの衣一日(ひとひ)より天の川波たちてきたるらし

    由良の門(と)をわたる舟人かぢをたえゆくへもしらぬ恋の道かな

 

 

 

23

 

見し夢にうつつの憂きも忘られて思ひなぐさむほどのはかなさ

徽子女王

 

白露の消えにし人の秋待つと常世(とこよ)の雁も鳴きて飛びけり 王朝百首

 

 

 

24

 

うつろはでしばし信太(しのだ)の森を見よかへりもぞする葛のうら風

赤染衛門

 

踏めば惜し踏まではゆかむ方もなし心づくしの山桜かな

 

 

 

25

 

年暮れて我が世ふけゆく風のおとに心のうちのすさまじきかな

紫式部  玉葉1036

 

 師走の二十九日にまゐる。はじめてまゐりしも夢路にまどはれしかなと思ひ出づれば、こよなう立ち慣れにけるも、うとましの身のほどやと思ふ。夜いたう更けにけり。御物忌みにおはしければ、御前にもまゐらず、こころほそくてうち伏したるに、前なる人々の“うちわたりは、なほいとけはひ異なり。里にては、今は寝なましものを。さも、いざとき履(くつ)のしげさかな”と、色めかしくいふを聞き。(紫式部集詞書?日記?★) 
 「源氏物語」の作者の詠と思えば、また感慨もひとしおである。
  源氏物語中歌
   心あてにそれかとぞ見る白露のひかり添へたる夕顔の花 (夕顔)
   恋ひわびて泣く音にまがふ浦波はおもふかたより風は吹かなむ (須磨)
   いにしへの秋の夕べの恋しきに今とは見えしあけぐれの夢 (御法)
   霜冴ゆる汀の千鳥うちわびてなく音かなしき朝ぼらけかな (総角)
   ありと見て手にはとられず見ればまたゆくへもしらず消えしかげろふ (蜻蛉)

 

 

 

26

 

黒髪のみだれもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき

和泉式部〈後拾遺755〉
 

和泉式部のうたといえばどうしてもこれになる。
 このうたについては、寺田透のあざやかな解釈がある。
  “…この歌は、何かの悲しみにくれて打ち臥す自分を慰めてくれた男を歌ったものではけしてない。かの女の黒髪のみだれは、房事のはげしさがもたらしたものであり、かの女は自失の状態で自分の髪の毛にくるまれて倒れているのだ。そしてそれがつねのことで男の方が早くわれに帰る。そしてかの女の髪の毛を、かきやる、というのは、単純に掻き撫でるのではありえないだろう。思いやる、言いやるという熟語動詞におけるのとおなじように「やる」という動詞がついている以上、乱れてかの女の顔をかくしていた髪の毛を、向うへ押しやるように掻きあげて、そうしてかの女の顔をのぞきこむようにした男が恋しいとこの歌は歌っているのであり、かの女が恋しているのは自分の肉体の征服者としての男なのだと断定してさしつかえない筈である。(「和泉式部」)”
 この評をとりあげたうえで、さらに丸谷才一が次のように付け加える。
  “女は男欲しさに悶々とするあまり、髪の乱れるのもかまはずに身を伏せる。と、そのとき、かつての激しい性交ののち、ちようどこのやうに身を伏せたとき、乱れ髪をかきやつてくれた男が恋しくなる…といふのが一首の意なのである。つまり第一句から第三句までは過去と現在の双方に共通する身のこなしなので、そのまつたく同じふたつの動作が、一方は欲情ののちの姿、他方は男恋しさの発作といふ、対立した二枚の絵として並べられ、しかもその二枚が最後の「人ぞ恋しき」であざやかに重ね合せられるところに、この歌の驚くべき技巧があつた。(「新々百人一首」)”
 丸谷はさらに“古人が慎み深い口調でどんなにエロチックなことを述べてゐるかは、丁寧に読みさへすれば容易に理解できるはずである。”と得意げに書いている。
 ふたりの中年-初老の評者が舌なめずりするように、このうたを味わっているさまが目にみえるようである。(なお、両人とも情事のさまと決めつけているが、単に泣いているところを慰められたのだとする説ももちろんある。)
 このうたを本歌にして定家は次の名歌を詠んだ。
 かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふすほどは面影ぞたつ

 野辺みれば尾花がもとの思ひ草かれゆく冬になりぞしにける  新古624
 枕だに知らねばいはじ見しままに君かたるなよ春の夜の夢   新古1160
 なぐさめて光の間にもあるべきを見えては見えぬ宵の稲妻   和泉式部続集
 暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月   拾遺1342
 もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづる魂(たま)かとぞ見る 後拾遺1162
 秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらむ 詞花集109  新撰小倉
 思ふことみな盡きねとて麻の葉を切りに切りても祓へつるかな 後拾遺1204  王朝百

 

 

27

 

なにか思ふなにをか嘆く春の野に君よりほかに菫摘ませじ

相模
 

うたた寝にはかなくさめし夢をだにこの世にまたは見でややみなむ

 

 


28

 

浅みどり花もひとつにかすみつつおぼろにみゆる春の夜の月

菅原孝標女

 

 

 

29

 

雲はらふ比良の嵐に月さえて氷かさぬる真野のうら波

源経信
 

月きよみ瀬々の網代による氷魚(ひを)は玉藻にさゆる氷なりけり

 

 

30

 

風ふけば蓮の浮き葉に玉こえて涼しくなりぬ日ぐらしの声

源俊頼

 

 

 

31

 

またや見む交野の御野の桜狩り花の雪ちる春の曙

藤原俊成

 

 ‘の’が6つもある。このたゆたうようなリズムが追想の夢を見るような情景へといざなう。俊成82歳の詠。

 

 

 

32

 

風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬ我が心かな

西行
 

初句、三句が字余りになっている。これが5字に収まっていたら、このうたはさほどの魅力をもたなかったのではないか。とりわけ、三句の字余り。
   風になびく富士の煙の空に消えゆくへも知らぬ我が心かな
 これでは“ゆくへも知らぬ”心はさしたるものとは思えなくなってしまう。

 

 

 

33

 

散りにけりあはれうらみの誰なれば花のあととふ春の山風

寂蓮

 

 

 

34

 

山たかみ嶺の嵐に散る花の月にあまぎる明け方のそら

二条院讃岐〈新古130

涙川たぎつ心のはやき瀬をしがらみかけてせく袖ぞなき 新古1120

 

 

 

35

 

ほととぎすそのかみ山のたびまくらほのかたらひし空ぞ忘れぬ

式子内親王

 

 和歌が発生してこの方、一体どのくらいのうたが詠まれたのだろう。今でも日に千、万の単位で作られているだろうか。累計では想像も及ばない数だ。億とか兆ではきくまい。そんななかでのただ一首を選ぶとすれば― など、思っただけでも気が遠くなるようなはなしである。だが、それでもあえて、と考えふと浮かんでくるのはこの一首だ。うたのすがたの美しさ、込められた思いの深さ、厖大な数の、しかもさまざまな趣向のうたが、この一首に収斂するのではないか、という気にさえなる。
 究極、とか最高峰というようなニュアンスとはいささか違う。極め付けの― といえば例えば定家の
   春の夜の夢の浮橋とだえして嶺にわかるるよこぐもの空
 などが思い浮かぶ。だがこのうたは累々と連なる和歌を代表するという意味ではふさわしくない。あまりに突出していて、他のうたは振り捨てられてしまうのだ。人麻呂の残照が、茂吉の予兆がここには映らない。この式子のうたには万葉から現代につながる和歌のエッセンスが響いている。
 式子内親王のうたは、繊細であっても、決して弱々しくはない。そのしなやかに凛とした後姿が見えるようだ。後白河院の子として生まれながら、貴族の世が武家のものに移っていった不遇の時代に生きたが、感傷にひたることはない。そのほとんどが題詠なのに、‘恨む’‘嘆く’のような用語はめったに見られない。数おおく用いられるのは‘ながむ’‘ながめ’といった語句である。
  花は散りてその色となくながむればむなしき空に春雨ぞふる 
  ながめつる今日はむかしになりぬとも軒端の梅はわれを忘るな
  ながめわびぬ秋よりほかの宿もがな野にも山にも月や澄むらん
  いま桜咲きぬとみえて薄ぐもり春にかすめる世のけしきかな
  八重にほふ軒端のさくらうつろひぬ風よりさきに訪うひともがな
  斧の柄の朽ちしむかしはとほけれどありしにもあらぬ世をもふるかな
  まどちかき竹の葉すさぶ風の音にいとどみじかきうたたねの夢
  うたたねの朝けの袖にかはるなりならす扇の秋のはつ風
  山ふかみ春ともしらぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水
 ため息が出るほどうつくしい…。

 

 

36

 

明けばまづ木の葉に袖をくらぶべし夜半の時雨よ夜半の涙よ

慈円

 

散りはてて花のかげなき木(こ)のもとに立つことやすき夏衣かな
身にとまる思ひをおきのうは葉にてこの頃かなし夕暮の空
染むれども散らぬたもとに時雨きてなほ色ふかき神無月かな
木の葉ちる宿にかたしく袖の色をありともしらでゆく嵐かな
蓬生(よもぎふ)にいつか置くべき露の身はけふの夕暮あすの曙
旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢をみるかな

 

 

 

 

37

 

風わたるあさぢがすゑの露にだにやどりもはてぬよひの稲妻

藤原有家

 

橘のにほひを風のさそひきて昔にかへす夜はのさ衣

 

 


38

 

今や夢昔や夢とまよわれていかに思へどうつつとぞなき

建礼門院右京大夫 風雅

 

 

 

39

 

桜花夢かうつつか白雲のたえてつれなき嶺の春風

藤原家隆

 

 

 

40

 

年も経ぬ祈るちぎりは初瀬山をのへの鐘のよその夕ぐれ

藤原定家〈新古今1142〉

 

 達磨歌とか狂言綺語と難じられ、この「六百番歌合」の際にも判者の父俊成にさえ“なにを言っているんだかよくわからない(心にこめて詞確かならぬにや)”と言われている。無理ともいえるほどに歌意を詰め込んだ内容もさることながら、同じ母音を執拗に畳みかける韻律の切迫がなんとも異様だ。
  TOSHIMOHENU NORUCHHA HATSUSEYAMA
  WHENKANEN YRE
 とりわけ二句のI音の畳みかけ(イ・・イイイ)を諳んずるたび、唐突だが、アンプが悲鳴をあげるかのように激しくひずむジミ・ヘンドリクスのギターを連想してしまう。そしてそれを鎮めようとするかのような下二句のO音の陰々たる沈潜、継いで締めのU音の不気味な静もり。いちど取り憑かれたらもう忘れることのできないうただ。 

こほりゐるみるめなぎさのたぐひかはうへおく袖のしたのささ浪  六百番歌合

かきやりしその黒髪のすぢごとにうちふすほどは面影ぞたつ    新古今1389
たづね見るつらき心の奥の海よ潮干の潟のいふかひもなし     新古今1332

 

 

 

41

 

帰る雁今はのこころありあけに月と花との名こそおしけれ

九条良経

 

 

 

42

 

葛の葉のうらみにかへる夢の世をわすれがたみの野辺の秋風

俊成卿女

 

 

 

43

 

風は吹くとしづかに匂へ乙女子が袖ふる山に花の散るころ

後鳥羽院

 

 

 

44

 

うすくこき野辺のみどりの若草に跡までみゆる雪のむら消え

宮内卿

 

 

 

45

萩の花くれぐれまでもありつるが月いでて見るになきがはかなさ

源実朝

 

 

46

    は

蝉の羽のうすくれなゐの遅桜をるとはすれど花もたまらず

順徳院

 

 

47

 

宵々の夢のゆくへのあやしさよ我が思ひ寝か人のこころか

永福門院

 

夕づく日軒端の影は移り消えて花のうへにぞしばし残れる
花のうへにしばしうつろふ夕づく日入るともなしに影消えにけり
真萩散る庭の秋風身にしみて夕日の影ぞ壁に消えゆく
空きよく月さしのぼる山の端にとまりて消ゆる雲の一むら
山あひにおりしづまれる白雲のしばしと見ればはや消えにけり
入相のこゑする山のかげくれて花の木のまに月いでにけり
   気象の移りゆくさま

 

48

 

やがてまた草葉の露もおきとめず風よりすぐる夕立の空

二条為子

 

憂しとおもふ風にぞやがてさそはるる散りゆく花をしたふ心は
散るは憂きものともみえず桜花あらしにまよふあけぼのの空
ものおもふ雲のはたてに鳴きそめて折しもつらき秋の雁がね

 二条為世のうたはおもしろくもなんともないがその子為子のうたは…  敵対する京極派が玉葉集にも5首採られている

 書き割り的な陳腐化の一歩手前の退廃美

 

 

49

 

そことなき霞の色にくれなりてちかき梢の花もわかれず

徽安門院
    

ふりよわる折々空のうすひかりさてしも晴れぬ五月雨のころ

 

 

50

 

時ならぬ風や吹くらし桜花あはれ散りゆく夕暮の空

安藤野雁

 

 

 

 

51

                    たま

其子等に捕へられむと母が魂蛍と成りて夜を来たるらし

窪田空穂〈「土を眺めて」T7〉

 M10-S42                              

 死んだ妻を偲んだうた。

 同じ歌集にはつぎのようなうたも。

 逢ふ期(ご)なき妻にしあるをそのかみの処女(をとめ)となりて我を恋はしむ

 

 

52

 ごぜ   こんじやう

後世は猶今生だにも願はざるわがふところにさくら来てちる

山川登美子〈『明星』掲載 M41〉

  M12-M42                 

 病床に臥して死を覚悟して詠んだもの。このうたを含む14首が、登美子が「明星」に発表した最後の作となった。翌年4月、結核により永眠する。上の句の諦念を受け、下の句が静かにとじられる。“さくら来てちる”というフレーズがうつくしい。しかし、よくよく考えれば不可思議な言い回しだ。理屈で言えば、さくらの花びらは散ってからふところに来るはず。来て・ちる、というのは逆ではないか、ということになる。では、“さくら散り来る”あるいは“さくら散りたり”ならよいだろうか。だが、これでは上の句の思いが曖昧なまま締まりなく流れ、上の句と下の句との関係がわけのわからないものになってしまう。ここはどうしても“さくら来てちる”でなければならない。けだし桜は恩寵として顕ち現われるからだ。そしてその末期を慰撫するかのように花びらは登美子のふところに降りかかるのだ。

 

 

 

53

 

ほのぼのとおのれ光りてながれたる蛍を殺すわが道くらし

斎藤茂吉

 

 

 

54

 

雪の上に春の木の花散り匂ふすがしさにあらむわが死顔は

前田夕暮

 

 

 

55

 

秋、飛沫、岬の尖りあざやかにわが身刺せかし、旅をしぞ思ふ

若山牧水

 

 

 

56 

       ひえ                    こ        し

照る月の冷さだかなるあかり戸に眼は凝らしつつ盲ひてゆくなり

北原白秋〈「黒檜」S15〉

 

我が眼はや今はたとへば食甚(しょくじん)に秒はつかなる月のごときか

 

 

 

57

                 あきび                         みち

曼珠沙華一むら燃えて秋陽つよしそこ過ぎてゐるしづかなる径

木下利玄 〈「みかんの木」T14〉

 

 

 

58

 

桜の花ちりぢりにしも
 わかれ行く 遠きひとり

 と 君も なりなむ

釈迢空〈「春のことぶれ」S5〉

 

 迢空のうたの不思議さ、…いや、ありていにいえば、‘不気味さ’はなにに由来するのだろう。
 頻出する‘かそけさ’‘ひそけさ’‘さびしさ’といった用語をを言挙げするのは容易だ。

人も 馬も 道ゆきつかれ死にゝけり。旅寝かさなるほどのかそけさ

ムラ       コ
邑山の松の木むらに、日はあたり ひそけきかもよ。旅びとの墓
ミナソコ                   シヅ   

水底に、うつそみの面わ 沈透き見ゆ。来む世も、我の 寂しくあらむ

 だがこういった民俗学者としての感性とか、現世と距離をおいた国学者としての視点とかを指摘しても、なんら解き明かしたことにはならない。詠われる内容は必ずしも浮世離れしたものばかりではない。太平洋戦争で養子・春洋を失い、戦後上梓された「倭をぐな」をあげるまでもなく、迢空のうたにはその感情が一見ストレートに表出されることもけっしてめずらしくない。

           ヤマト                サスラ

ひのもとの大倭の民も、孤独にて老い漂零へむ時 いたるらし
今の世の幼きどちの生ひ出でゝ 問ふことあらば、すべなかるべし
たゝかひに果てし我が子の 還り来し夢を語らず。あまりはかなき

                                   ムゴ

愚痴蒙昧の民として 我を哭かしめよ。あまりに惨く 死にしわが子ぞ
たゝかひに しゝむら焦げて死にし子を 思ひ羨む 日ごろとなりぬ

 このような感情を露わにしたうたにしても、アララギ派の生活詠などとはあきらかに趣を異にする。これらは次のようなうたとも、なんのギャップもなくつながっているのだ。

   ヤソ タンジヤウヱ              モノ               コブラ

耶蘇誕生会の宵に こぞり来る魔の声。少くも猫はわが腓吸ふ

キリスト                 ハダヘ
基督の 真はだかにして血の肌 見つゝわらへり。雪の中より

                                     ヲトメ
みつまたの花は咲きしか。静かなるゆふべに出でゝ 処女らは見よ

                              ヱマ

ほのぼのと 炎のなかに女居て、しづけき笑ひ消えゆかむとす
いまははた 老いかゞまりて、誰よりもかれよりも 低き しはぶきをする
人間を深く愛する神ありて もしもの言はゞ われの如けむ

 

 うたわれる内容、ではなく、迢空の存在そのものが不気味に思えてならない。

 あまたの門下生を輩出したが、迢空の歌風を引き継いだ者、あるいはそのエピゴーネンさえもついに一人も現れえなかった。

 

 

 

59

         はな         ひと     しらは

咲きこもる桜花ふところゆ一ひらの白刃こぼれて夢さめにけり 

岡本かの子〈〉

 

 

 

60

 

春の岬 旅のをはりの鴎どり
浮きつつ遠くなりにけるかも

三好達治〈「測量船」〉
 

 不朽の名詩集「測量船」の巻頭に載るうた。だが巻頭歌としてはいささか不思議の感がある。なぜ初端から“旅のをはり”であり“遠くなりにけるかも”なのか。

 この頃、彼は勤めていた会社も倒産、婚約も破談という散々な情況だったらしい。詩人はここでこれまでの現実を遠景にフェイドアウトして、新たな世界に踏み出そうとしたのだろうか。この巻頭歌のあと、最初に掲げられる詩はあの「乳母車」である。

時はたそがれ

母よ 私の乳母車を押せ

泣きぬれる夕陽にむかつて

轔々と私の乳母車を押せ

 

 

 

 

61

                  ほむらだ            わぎも

これやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹よ吾妹

吉野秀雄

 

 妻の死を間近にして詠まれたうた。同じ歌集に ―

真命(まいのち)の極みに堪へてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ
太白星(あかぼし)の光(かげ)増すゆふべ富士が嶺(ね)の雪は蒼めり永遠(とは)の寂(しづ)けさ

 

 


62

 

春がすみいよよ濃くなる真昼間のなにも見えねば大和と思へ

前川佐美雄

 

 

 

 

63

                                       しふね

風葬ををはりきたりて嗚咽しき病みゐれば見る夢も執念き

生方たつゑ

 

たふれゆく樹骸の湖(うみ)にしぐれして啓(ひら)かれてゆく冬の音なり   白い風の中で(S32,'57)
蜜房の妖しき花をつぶしきてわれはきしきしと手を洗滌す
愛恤(あいじゆつ)もむなしかりけりと酸性化してをらむこの疾きつぶやき  火の系譜(S35,'60)
鯖裂けば手のなまくさき夜にしていづくにか閃(ひか)る放電のそら
木を囓(かじ)る音ききし夜も雪ふれり欠けし紋章も濡れつつあらむ     花鈿(S48,'73) 
罅(ひび)入りし土蔵に夕陽沁むるとき父の血よ母の血よ霊(りょう)を呼ぶこゑ

 

 


64

                         やてん   も     ふら

母よ母よ息ふとぶととはきたまへ夜天は炎えて雪零すなり

坪野哲久
  

冬星(ふゆぼし)のとがり青める光もてひとりうたげすいのちとがしめ

曼珠沙華のするどき象(かたち)夢にみしうちくだかれて秋ゆきぬべき 

秋ふかきけはひつめたく光るものこの辻うらの魚眼の青き

秋のみづ素甕(すがめ)にあふれさいはひは孤(ひと)りのわれにきざすかなしも

春潮(はるしほ)のあらぶるきけば丘こゆる蝶のつばさもまだつよからず

 

 


65

 

疾風はうたごゑを攫ふきれぎれに さんた、ま、りぁ、りぁ、りぁ

葛原妙子〈「朱霊」S45〉

     M40 - S60            

 孫の洗礼式に際してのうたであるとか、クリスチャンとなった長女との確執が絡んでいるということらしいが、そのような背景を知ったからといってもなんの役にもならない。そもそも、葛原妙子のうたは、あれこれ解釈をする以前に読む者の知見の箍を狂わせ、眠っていた感性を勝手に起動させてしまうのだ。したがって、安易な解釈をも許してしまうような彼女の代表作といわれるうた ―

わがうたにわれの紋章いまだあらずたそがれのごとくかなしみきたる「橙黄」S25
他界より眺めてあらばしづかなる的となるべきゆふぐれの水    「朱霊」S45

といったうたよりも、ただ“あれ”と指さすような、また、ただ“それが見える”といっているだけのようなうたこそが葛原妙子の真髄ではなかろうか。それは冒頭のうた、そして例えば次のようなうただ。

アイリスと美(くは)し名をもつおほいなる風の進路は茫洋とみゆ  「縄文」*

* 未刊歌集。S25-S27の作が「葛原妙子歌集」S49に編集・収録。

ひともとの樹木の黒幹片よりに立ちゐる硝子まどの空間      「原牛」S35
昼の視力まぶしむしばし 紫陽花の球に白き嬰児ゐる 
黒峠とふ峠ありにし あるひは日本の地図にはあらぬ

晩夏光おとろへし夕 酢は立てリ一本の壜の中にて        「葡萄木立」S38

 前衛短歌の一方の旗手の塚本邦雄が、ありとあらゆる韻律の実験、技法の駆使、イメージの提示を展開したのに比して、葛原妙子は少なくとも意識的にはそのような手法が先走るような作歌はしなかったようにみえる。結果的にそれまで誰も詠ったことがないような特異なうたが顕ち現れることになるのだけれど。

 

 

66

        あゐ

あぢさゐの藍のつゆけき花ありぬぬばたまの夜あかねさす昼

佐藤佐太郎 

 

 


67

            あきつ

ぬばたまの黒羽蜻蛉は水の上母に見えねば告ぐることなし

齋藤史〈「風に燃す」S42〉

 M42 - H14             

  史の母はこの頃失明した。“おかあさん、黒羽蜻蛉が…”と言いさして、口を噤む。よどみなく美しい韻律がかえって寂寥の気を深くする。‘ぬばたまの’は黒にかかる枕詞。これがなければこのうたは成立しない。黒羽蜻蛉は神様トンボとも呼ばれ、繊細に蝶のようにひらひらと儚げに飛ぶ。‘ぬばたまの’という一語によって、それがこの世ならぬ世界からの使者であることが知れる。そして史がなぜ口を噤んだのかも。
  白い手紙がとどいて明日は春となるうすいがらすも磨いて待たう 「魚歌」 S15
  野に捨てた黒い手袋も起きあがり指指に黄な花咲かせ出す 
  たそがれの鼻唄よりも薔薇よりも悪事やさしく身に華やぎぬ
  暴力のかくうつくしき世に棲みてひねもすうたふわが子守うた
  春を断(き)る白い弾道に飛び乗つて手など振つたがつひにかへらぬ
  濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ
  たふれたるけものの骨の朽ちる夜も呼吸(いき)づまるばかり花散りつづく
  羽破れ舞ひ立ちがたき朝の蛾を掃きて捨てつつ夏も終りぬ    「歴年」  S18
  白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼(め)を開きをり 「うたのゆくへ」 S28
  晩秋の音黒鍵を下りゆきしだいに尾部にいたる蛇の死      「風に寄す」 S42
  かなしみの遠景に今も雪降るに鍔(つば)下げてゆくわが夏帽子  「ひたくれなゐ」 S51  

 

 


68

                     さ

ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

宮柊二〈「山西省」S24〉

                                                                                                                                T1 - S61

 従軍のさまを詠んだ「山西省」に収められたうた。このうたのとおり、言葉を失ってしまう。詞書“部隊は挺身隊。敵は避けてひたすら進入を心がけよ。銃は絶対に射つなと命令にあり”

こゑあげて哭けば汾河の河音の全(また)く絶えたる霜夜風音(しもよかざおと)

 宮柊二の死後、山西省を訪れた妻・宮英子は次のうたを詠んだ。

亡き柊二あらはれ出でよ兵なりし君がいくたび越えし滹沱河(こだがは) 「ゑそらごと」H3

 

 


69

 

火の匂ひ、怒りと擦れあふ束の間の冬ふかくして少年期果つ

浜田到

 

 


70

                                   あけ

さらば夜の怒りのあとのふくだみし魂魄のごと暁のあぢさゐ

安永蕗子

 

 

 

 

71

 

冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか

中城ふみ子

 

 

 


72

 

人妻の乳首の紅のにごりゆく夜のさみだれの寝ぐるしさかな

吉岡実〈「魚藍」S34 ,'59〉

 

 詩人 吉岡実が二十代前後に詠んだうた。四十歳での結婚を機に若い日のうたを小冊子にして親しい知人に配ったという。

手紙かく少女の睫毛ふるふ夜壁に金魚の影しづかなり

 

 

 

73

五月来る硝子のかなた森閑と嬰児みなころされたるみどり

塚本邦雄〈「緑色研究」S40〉

                                                                                                        T9 - H17                 

 その名も「緑色研究」のなかのこの歌。“みなころ/されたるみどり”という句跨りの妙や、緑の縁語を連ねた惨酷なイメージの演出がいかにも塚本邦雄だ。新約聖書のヘロデ王の嬰児虐殺の衒学を踏まえずとも、鮮烈な光景がまざまざと開示される。緑の縁語は、‘五月’‘森閑’‘嬰児(=みどりご)’だが、もう一つ、‘硝子’もそこに引き寄せられるのではないか。すなわち、ガラスの断面の緑色。割れたときなどはことさら底深い暗緑色が光る。みなごろしの凶器は、この割れたガラスによってなされたのではないかと、つい深読みしたくなる。塚本は「緑色研究」を“自歌自註(??)”した「緑珠玲瓏館」のなかで、“それは幼時から私の関心を引いてやまぬ色であつた”と緑色への偏愛を語っている。なお、初句にルビは振られていないが、“さつききたる”であって、間違っても“ごがつくる”ではあるまい。

 

 


74

 

ごろすけほう心ほほけてごろすけほうしんじついとしいごろすけほう

岡野弘彦

 

 

           

75

 

草萌えろ、木の芽も萌えろ、すんすんと春あけぼのの摩羅のさやけさ

前登志夫

 

 

 

76

            ちち  わか      ま

歳月はさぶしき乳を頒てども復た春は来ぬ花をかかげて

岡井隆〈「歳月の贈物」S53〉

S3 -                     

 一首をもってその歌人の全体像を語るということは無理でも、その作風が端的に表れたという意味での代表作を掲げる、ということなら許されるのではないか。貫之にしろ、定家にしろ、茂吉にしろ、塚本邦雄にしろ、複数の候補が挙がって煩悶しそうだが、まあ、独善的ながらできそうな気がする。晶子や啄木ならさらに可能だろう。

 若い頃の作が、その歌人の代表作となった例は枚挙にいとまがない。つまりそれだけ自分を更新していくのは困難だということだろう。特に”青春の文学”などといわれる短歌にあっては。

 だが、岡井隆の‘代表作’を選び出すのはほとんど不可能である。歌集だけでも厖大だが、それよりも、作風のみならず身の処し方そのものも目まぐるしく変遷した。といって軽々に身を翻したけでもなく、いわばそのつど重いパンチを繰り出しながら、次の瞬間にはその場にはもういない、という人なのだ。

 ここに撰んだのは、岡井のなかでも整った美しいうただが、これがもっとも彼らしいうたかというと、そういうわけでもない。

灰黄(かいこう)の枝をひろぐる林見ゆ亡びんとする愛恋ひとつ 「斉唱」S31

ああ言葉あふれて止まぬ唇を覆わんとして父の手乾く  「土地よ、痛みを負え」S36

生きがたきこの世のはてに桃植ゑて死も明(あ)かうせむそのはなざかり「鵞卵亭」S50

ドア                                  ド  ア  よ、 お  や  す  み

扉の向うにぎつしりと明日 扉のこちらにぎつしりと今日、Good night, my door!

 「蒼穹(おおぞら)の蜜」H2        

冬蛍(ふゆぼたる)飼う沼までは(俺たちだ)ほそいあぶない橋をわたつて

「神の仕事場」H6

わが生に歌ありし罪、ぢやというて罪の雫は甘い、意外に  「夢と同じもの」H8

革命にむかふ青春のあをい花ほんとに咲いてゐたんだってば 「大洪水の前の晴天」H10

食卓のむかうは若き妻の川ふしぎな魚の釣り上げらるる

「馴鹿(トナカイ)時代今か来向かふ」H16   

 

 

 

77

 

われのおにおとろえはててかなしけれおんなとなりていとをつむげり

馬場あき子〈「飛花抄」S47〉

 S3 -                 

 馬場あき子には他にいくつもの名歌があるが、あえてこれを採りたい。「鬼の研究」で知られる馬場だが、この歌に込められた思いは、通奏底音のように次の代表作にも響いている。

さくら花幾春かけて老いゆかん身に水流の音ひびくなり      「桜花伝承」S52
夜半さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん  「雪鬼華麗」S54

 

 

 

78

       かけを き

音さやに懸緒截られし子の立てばはろけく遠しかの如月は

美智子妃

 

 帰り来るを立ちて待てるに季(とき)のなく岸とふ文字を歳時記に見ず  美智子皇后 H24歌会始

 

 

 


79

 

夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず

寺山修司〈「空には本」S33〉

S10 - S58                

 寺山の美質がその抒情性にあることは紛れもない。初期の短歌・俳句にその特長は眩く発揮されていた。だが、一転「田園に死す」あたりから彼の韜晦がはじまる。短歌だけでなく、演劇などでもその前衛性は時代の先頭を走っていたかのように見えるが、はたしてそれは彼の本質だったのか。同時期を疾走した唐十郎の状況劇場の得体の知れなさなどに比べれば、寺山のパフォーマンスはどこか頭でっかちで底が透けて見えるような気がしてならなかった。おそらく彼は自分の少年の抒情性を恥じらっていたのだ。それが自分の本質であるだけに、なおさら。そこで、後期の作品群がコントロールされた自己演出の所産であるように、初期のものもまたあたかもそうであるかのように、後付けながら装ってしまいたかったのではなかろうか。それが成功したようにはとても思えないけれども。
 (‘屍’は‘しかばね’ではなく‘し’とよむのだろう。)

 

 


80

 

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ

小野茂樹〈「羊雲離散」S43〉

 S11 - S45              

 王朝時代、その歌人の名をたからしめたうたの語句をとって「沖の石の讃岐」(わが袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らねかわくまもなし)、「若草の宮内卿」(うすくこき野辺のみどりの若草に跡までみゆる雪のむら消え)などの異名がつけられたという。さしずめ現代なら「あの夏の茂樹」といったところだろうか。戦後の短歌史を語るうえで、まずこの歌が外されることはないのではないか。しかし、あまりにこれが突出して他のうたが顧みられなくなったかのようにさえみえるのは、この夭逝した歌人にとって幸運なことであったかどうか。

ひつじ雲それぞれが照りと陰をもち西よりわれの胸に連なる

砂に棲むものあり砂に音たててゆたかなる潮沖を過ぎゆく

 

 

 

81

 

花びらはくれなゐうすく咲き満ちてこずゑの重さはかりがたしも

小中英之

 

今しばし死までの時間あるごとくこの世にあはれ花の咲く駅

 

 

 

82

 

夏の女のそりと坂に立っていて肉透けるまで人恋うらしき

佐々木幸綱〈「群黎」S45〉

 S13 -               

なめらかな肌だったっけ若草の妻ときめてたかもしれぬ掌(て)は     「群黎」S45

泣くおまえ抱(いだ)けば髪に降る雪のこんこんとわが腕(かいな)に眠れ  「夏の鏡」S51

抱き合って動かぬ男女ゆっくりと夕波は立つ立ちて崩るる      「火を運ぶ」S54

 

 


83

                                ゆふづつ

少年に戻れとならば戻れるは微罪のごとし夕星見つつ

春日井建(「井泉」H12/'02)

S13 - H16              

 定家になぞらえた三島由紀夫の「未青年」序文によって一躍時代の寵児になり、あまたの追従者を生んだ。

大空の斬首ののちの静もりか没(お)ちし日輪がのこすむらさき   「未青年」S35
童貞のするどき指に房もげば葡萄のみどりしたたるばかり

 たしかにこの2首はいまも鮮烈な印象を残すが、超絶技巧の限りを尽くした定家に、春日井はとても比肩されるものではない。ただ背徳的な題材を詠っていたのが三島の趣味にかなっただけのことだろう。当時斬新に思えたうたも、そのおおくが今日から見ればむしろ時代を感じさせる。いまもなお輝きを失わない寺山修司の初期作品のようにはいかない。そのことを春日井自身いつか自覚したに違いない。一旦短歌と訣別したのもその思いがあったからだろう。復帰後も“「未青年」の春日井建”というキャッチフレーズはついに最後までついてまわった。“戻れとならば戻れるは”という吐き捨てるような物言いは、その苦さを吐露しているようだ。その苦みを含んだまま、2年後、春日井は病により生涯を閉じた。

 

 


84

 

こぼれたる鼻血ひらきて花となるわが青年期終りゆくかな

玉井清弘

 

 結核の喀血なら美しくもあるだろうが、鼻血ではそうもいくまい。‘はな’血が‘はな’となる? そんな駄洒落のような語呂合わせにふと気がついて、そのこぼれた鼻血を見つめながら自嘲めいた苦笑を洩らす。鼻血は所詮鼻血じゃないか。それがまださまになるのはせいぜい若い季節までだ。しかし、そのことがわかった時には、もはや自分は青年ではなくなっているのだ。

 

85

 

水風呂にみずみちたればとっぷりとくれてうたえるただ麦畑

村木道彦〈「天唇」S49〉

S17 -             

耳のみがふき遺されているわれにきれぎれやなんの鐘ぞきこゆる

秋いたるおもいさみしくみずにあろうくちびるの熱 口中の熱

あわあわといちめんすけてきしゆえにひのくれがたをわれは淫らなり

黄のはなのさきていたるを せいねんのゆからあがりしあとの夕闇

  中井英夫はこれらのうたについて「黒衣の短歌史」に次のように書いている。”村木道彦が次の歌を発表した四十年にはまだ慶応の学生だったが、僅かな数でありながら…その新しい作風は、たちまち同世代の間に波紋をひろげた。”また、”早稲田短歌会で、当時村木の人気は寺山修司のそれをはるかにしのいだと佐々木幸綱は口惜しげに書いた。村木が十九歳のときから注目していた藤田武は「村木道彦天才論」を折にふれ口にした(関口夏央「現代短歌 そのこころみ」”。

 自分のことにしていえば、村木道彦を知ったのはリアルタイムではもちろんなくそれから10年近く後だったが、それでもそのうたの衝撃は新鮮だった。いや、今でもこれらのうたにはある種の感慨をおぼえる。

 だが、村木はこののち、徐々に精彩を欠いていく。やがて彼は35歳でとうとう一旦作歌をあきらめている。なぜ彼は挫折したのか。短歌が青春の営みだから、といってしまえば話は簡単だ。通観すれば、村木道彦のうたには上記のうたも含めて、ある特有の傾向がある。以下、(おそらく)作歌順にならべてみる。

めをほそめみるものなべてあやうきか あやうし緋色の一脚の椅子

やまの木のはざまのそらをみてきたるしるこをたべているぼくのめは

青春はまこときずつきやすくあれ ガーゼマスクの唇(くち)かわけるを

スペアミント・ガムを噛みつつわかものがセックスというときのはやくち

気がくるうほどさびしきに桜湯や 唇(くち)にちいさき花は寄りたり

ふかづめの手をポケットにづんといれ みづのしたたるやうなゆふぐれ

あつき湯にかゆがりながらしずむとき忘れていたることのかずかず

 やがて、うたはしだいに閉塞感を帯びはじめる。

婬逸とくらきつかれや静電気帯びつつぬげるテトロンジャケツ

セックスのおとずれというはつね俄か にがきかおりのチョコレート噛み

口臭はわれかとおもいはつなつの電車こみあうなかのひとりよ

脱糞ののち出てくる戸外にはすさまじきかな夕あかね充(み)ち

よりどころなくて疲れしいちにちのおわりにひどくさとき耳もつ

疲れたるまなこもてみよガラス戸の水一滴のなかのゆうぐれ

淫猥のおもいといえばつぎつぎにそらの真蒼(まさお)にこそうまるらめ

寿司屋にてすしをつまみてきたるゆえややなまぐさきなつのよのゆび

 これらのうたに共通するのは、眼、唇、耳、指などの身体、あるいは性欲や湯浴みしたときなどの身体感覚がうたわれていることである。もちろん、そのようなうたを恣意的にピックアップしたわけだが、それにしてもその傾向の頻度はきわめて高い。また、良くも悪くも印象深いのはそんなうただ。それらは客観視されるわけでもなく、ナルシスティックに自己撞着したまま語られている。

 若ければその傲慢が一種の爽やかさにも通じるだろう。だが、いつまでもそこに停滞すれば自己模倣の袋小路に陥り、澱がよどむ。口臭、脱糞、生臭さなどは実に端的な表れだ。

 ’60年から70年のはざまにあって、ノンポリティカルな立ち位置から、身近な、しかし斬新な視点を提示したが、ついに村木は自分自身の輪から脱け出すことができなかった。逆編年体で編まれた「天唇」の最終ページに載るうた、すなわち彼のもっとも早い時期と思われるのは次のうたである。

恐るべきもの触るごと撫でてみつ十九歳のわれの手脚を

 恐るべきものであったはずのものは、ついには回り回って自分自身にまとわりつくものになりさがった。 

 ほとんど一瞬のあの光芒を、奇跡的な恩寵と見るほかはあるまい。

 

 

 

86

 

逆立ちしておまへがおれを眺めてた たつた一度きりのあの夏のこと

河野裕子〈「森のやうに獣のやうに」S47〉

 

 6・7・5・9・7音の破調。河野裕子のデビュー歌集の冒頭に置かれた10代の作。さらにもうひとつの人口に膾炙しているうた―
   たとへば君 ガサッと落ち葉すくふやうに私をさらつて行つてはくれぬか
 これも6・7・6・8・8と字余りだらけである。だが、この2首とも、あえて違和感を強調したようなぎくしゃくした破調とは感じられない。独特の勢いのままに詠みくだせば、破調であることすら意識されないくらいだ。長男の歌人永田淳は「河野には独特の内在律のようなリズム感があって…千数百年にわたって保ち続けた「型」の磁場のなかにあれば短歌たりえる、そう考えて作歌していたのではないか…」と記している(「河野裕子」)。たしかにこんな天性の芸は河野裕子にしかできないだろう。なお、永田は、この歌がガラス玉を覗いて倒立像が見えたという河野の高校時代の詩が下敷きになったと明かしているが、それに拘泥する筋合いはない。ガラス玉云々はここにはまったく見えないので、あくまでも“一度きりのあの夏”の情景を思い描くべきだ。うたは、おまへがおれ(河野)を眺めてた、とも取れるし、相手の視点に立っておまへ(河野)がおれを眺めてた、とも取れる。(永田は「女性が自身を「おれ」と言い、おそらく男性を「おまへ」と呼んでいる…」と書くが―。)どちらか、というより、どちらでもあるのではないか。相互に交差する視線。逆立ちそのものがその仕掛けの道具立てなのではなかろうか。

 

 


87

 

あの胸が岬のように遠かった。畜生! いつまでおれの少年

永田和宏

 

 直線距離にすればすぐそこなのに、実際に行こうとすればやたらに回りくどい迂路を経なければならない。ばかやろう、ぐずぐずしやがって、まったくガキだな、おれってやつは…。学生結婚した河野裕子とのことを謳ったのか、さあ、どうだろう。そんな下世話な想像をしてしまうのも、若き河野に次のようなうたがあるからだ。

ブラウスの中まで明るき初夏の陽にけぶれるごときわが乳房あり

「森のやうに獣のやうに」

今刈りし朝草のやうな匂ひして寄り来しときに乳房とがりゐき

 

 


88

 

きらきらとまぐはふ父母はなげきなりわれを結びし雪の夜のごと

奥井美紀

 

 この人については以前まとまった文を書いた。(⇒ )前登志夫の「山繭」に連なる歌人のようだが、このうたに関するかぎり、64の坪野哲久との親近性もあるような気もするのだが。

 

 

 

89

 

逝く父をとほくおもへる耳底にさくらながれてながれてやまぬ

永井陽子〈「なよたけ拾遺」S53〉

S26 - H12                

永井陽子のうたは、次のように評される。

 

…外へ開かないで、内へと閉ぢることによつて、あの軽快で、どことなく明るい歌が出来たといふことは、創作の不可思議を示してゐる。(岡井隆)

…歌から〈私性〉がほとんど完璧なまでに払拭されている…いかに三十一音のなかで「言わないで表現できるか」というところに賭けていたようなところがある。(永田和宏)

…私生活を排除した童話や物語のような詩世界。…言い替えれば、現実や世界を生々しく表現するにはあまりに鋭敏な感性を持ち、自分の価値観や美意識に反するものには触れたくないとの意思と意地があったか。(松平盟子)

 

 そう安易に括ってしまっていいものだろうか。よく知られた前掲のようなうただけを見ればそのような感がなくもないだろうが、彼女には次のようなうたもあることをこの評者たちは重々知っているはずではないか。

 

比叡山おばけ屋敷はいまもあそこにあるのだらうか なう 白雲よ

母がめそめそと泣く陽だまりやこんな日は手毬つきつつ遊べたらよし

父を見送り母を見送りこの世にはだあれもゐないながき夏至の日

ひとの死の後片付けをした部屋にホチキスの針などが残らむ

 

 とりわけ初期のあざやかなうたが残像となってあのような評になったか。この頃を回想して永井自身が次のように述べている。

 

 だれもがなんらかの形で〈私〉や〈現実〉や〈社会〉に深くこだわっていた。…作品の内に作者そのものの姿を求めてしまう創作や鑑賞の方法…自我と密着せざるを得なかった近代短歌の方が、和歌史の中ではむしろ特殊な部類ではないだろうか。

 

 永井陽子の評価を高らしめた第二歌集「なよたけ拾遺」はファンタジックなトーンに覆われているが、ところどころに‘父’を詠んだうたが散見される。冒頭に掲げた "逝く父を…" もそうだが、全体の流れのなかでは、それも一連のファンタジーの一つという印象である。

 だが、この数年前に永井は現実に父親を亡くしている。彼女はエッセイのなかで、自分は両親の晩年の子で(年表によれば父50歳、母40歳で出生した)子供の頃、学校から帰ると父か母の葬式が始まっていたという夢を幾度となく見た、と書いている。

 永井陽子が「なよたけ拾遺」のあちこちににすべり込ませた‘父’のうたはまぎれもなく彼女の現実と繋がっている。もちろん、それは作品として昇華されたものだけれども。

 

逝く父をとほくおもへる耳底にさくらながれてながれてやまぬ

さみどりの黄泉のみづかげふりかへりふりかへりゆく父は旅人

田に遊び野草に遊ぶ神の背が父に似てゐる やがてさみだれ

わたくしを呼ぶ父やもしれず両耳を歩ますほどの月あかりなり

父は天にわたくしは地にねむる夜の内耳のあをい骨ふるへつつ

空へかへる父が抱きてゆきしかな虫のたましひ樹のたましひも

 

 これらのうたは、まとめられているわけではなく歌集全編にばらばらに散りばめられている。蓋し「なよたけ拾遺」という歌集は、永井の、父へのひそかな挽歌でもあったのだ。

 

 ― そして遺歌集「小さなヴァイオリンが欲しくて」におさめられたこのうた。

 

父を見送り母を見送りこの世にはだあれもゐないながき夏至の日 

永井陽子は現実を超えることができたのだろうか。

 うたの世界だけに生きていけたら、どんなにかいいだろう…。観念などとしてではなく。

 切実に彼女はそう思っていたに違いない。「なよたけ拾遺」のあとがきに彼女は次のように記している。

 

…抱きつづけたもの呼びつづけたものをひとつの世界として提示する以外、私は私の存在を確かめようがありませんでした。そのことのみは、生涯、人にゆずることはできないと思います。かつて「短歌は青春の文学である」と言った無謀への返礼を、これから長く受けていくことでしょう。

 

ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ

 

 ‘ゆふぐれの櫛’ ― すなわち‘言葉’を、わたしは拾いあつめていく。わたしは‘言葉’だ。わたしは‘うた’だ。どんな現実も、‘うた’に回収してみせる。

 

 だが、現実は容赦なく‘うた’に浸食してくる。父の死をうたったときのようには、いかない。母の病と死、仕事上の不如意…。自らも病んだその‘晩年’は、あたかも現実とうたとがせめぎ合うかのような様相を見せて痛々しい。

 

  いまいちどすず風のやうな歌書かむ書かば死ぬらむ夏来るまへに

 

 そしてノートに残されていたという遺歌集の掉尾に掲げられたうた ―

 

流れたる歳月にしていつまでも美しからずわが言葉さへ

 

 彼女は十代からはたち頃にかけて、短歌とともに俳句もつくっていた。最初に上梓した「葦牙」は句歌集である。そのあとがきに "俳句は一生続けられる。…だが短歌は…。" と彼女は記す。それでもその後、永井が選んだのは短歌だった。

 

青春以外のものを短歌にたくせるか。青春からはずれた時経た魂が、気のとおくなるような連続のうえにさらに新しい連続を繰り繋いでいかれるか。残骸としての作品は許さぬ。だから自らへ向けて叫ぶのだ。「短歌は青春の文学である!」そして絶句する。

 

 「葦牙」の巻頭に掲げられた句 ―。

 

いまだ幼く ここは盛夏の切り通し

 

 切り通しを抜けて、永井陽子の魂は眩い陽射しのもと歩み去っていくことができただろうか

 

 「なよたけ拾遺」はかぐや姫伝説を下敷きにした劇団四季の「なよたけ」に触発された歌集だという。そのなかのこのうたも当然そんなファンタジーのひとつだろうと思わせる。永井陽子は私性を排して音楽性・物語性を前面に打ち出したうたをつくった。そう評されるし、また本人もそのようなことを折々に書いている。だが、このうたは明らかに歌集上梓の数年前に亡くなった父を詠んだものだ。「なよたけ拾遺」にはところどころにさりげなく亡くなった父への挽歌が忍び込ませられている。
   さみどりの黄泉のみづかげふりかへりふりかへりゆく父は旅人
   田に遊び野草に遊ぶ神の背が父に似てゐる やがてさみだれ
   わたくしを呼ぶ父やもしれず両耳を歩ますほどの月あかりなり
   父は天にわたくしは地にねむる夜の内耳のあをい骨ふるへつつ
   空へかへる父が抱きてゆきしかな虫のたましひ樹のたましひも
 私性を排する、というより、どんな私的な現実も‘うた’という‘私’を超える器のなかに回収してしまおうという思いがあったのだ。詠ってしまいさえすれば、どんな現実も美しい夢になるはずだ。だが、それは言葉を弄び、空想の世界に遊ぶといった態のものではなかった。愛唱される永井の代表的なうた ―
   ゆふぐれに櫛をひろへりゆふぐれの櫛はわたしにひろはれしのみ
   貝殻山の貝殻の木が月光にぬれてゐることだれにも言ふな
   べくべからべくべかりべしべきべけれすずかけ並木来る鼓笛隊
   ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり
 これらのうたにしろ、メルヘンの世界といった類ののどかさは感じられない。どこか儚げな、さらにいえば切羽詰まったトーンさえ聞こえてくるように思えてならない。晩年、というにはあまりに早すぎた死ののちに上梓された遺歌集には次のようなうたが見られる。求めたうたの姿と現実とが拮抗するようで痛々しい。
   ここに来てゐることを知る者もなし雨の赤穂ににはとり三羽
   父を見送り母を見送りこの世にはだあれもゐないながき夏至の日
   いまいちどすず風のやうな歌書かむ書かば死ぬらむ夏来るまへに

 

 

 

90

 

天使の尻 夏の葉むらに恥ぢらひてあわだつほどのまひるまの夢

読人不知

 

 

 

 

91

                 ちちふさ

垂れこむる冬雲のその乳房を神が両手でまさぐれば雪

松平盟子〈「天の砂」H22〉

S29 -               

 ‘垂れこむる’冬雲-乳房をまさぐるのだから、神はその下に位置するはずだ。すなわち、これは、気象と照応しつつ地上の男女の営みをうたったものでなければならない。

 

 

92

 

終ります白梅散りて 終ります紅梅散りて いつか終ります

小島ゆかり〈「エトピリカ」H14〉

 S31 -                    

 平明な口語による小島ゆかりのうたはよく知られている。
    団栗はまあるい実だよ樫の実は帽子があるよ大事なことだよ
    そんなにいい子でなくていいからそのままでいいからおまへのままがいいから
 だが、このような完全な口語のうたは実は数少ない例外である。小島のうたはほとんどが文語でつくられており、第一歌集からすでにみごとな美しい文語体が駆使されている。
    藍青(らんじやう)の天(そら)のふかみに昨夜(よべ)切りし爪の形の月浮かびをり
    渡らねば明日へは行けぬ暗緑のこの河深きかなしみの河
 そしてその後も ―。
    青日傘さして白昼(まひる)の苑にゐし女あやめとなりて出で来ず
    温水(ぬくみず)の田螺おそるべし藻を食みてじつと交(つる)みてぞくぞくと殖ゆ
 小島ゆかりにとっては口語も文語も特にこだわりをもって使い分けるものでははなく、うたは言葉をあれこれ捏ね繰りまわすことなく自然に口をついて出てくるもののようだ。天性の歌人というべきだろう。実際は知るところではないけれど、小島がうんうんと呻吟している姿は想像しにくい。
 従って、一首のなかに口語と文語が混ざるうたも少なからずあって、冒頭のうたなどがその典型である。これを、例えば口語だけにするのは実に容易だ。
    終ります白梅散って 終ります紅梅散って いつか終ります
 また、文語で作ることも。
    終りなむ白梅散りて 終りなむ紅梅散りて いつか終りなむ
 だがこうしてみると、この口語・文語混りのこのうたがいかに秀逸かがはっきりわかる。
 口語だけのうたは、この詠み手の個人的な手詰まり感、閉塞感を詠っているだけのように見える。
 文語だけなら、花が散ることの寂寥がクローズアップされるだろう。
 だが、この口語・文語が重なるうたになると、個人の心情を詠っただけとも、また、花に寄せた思いを詠っただけとも思えない。脳裡にこびりつく“終ります”のリフレイン。人の力の及ばぬのっびきならないなにかが暗示される。人生そのものの宿命、あるいはこの世の避けがたい静かな終末さえもが予感されているように思えるのだ。
    

 

 

93

 

風狂ふ桜の森にさくらなく花のねむりのしづかなる秋

水原紫苑〈「びあんか」H1〉

S34 -            

  不在の桜。もはや咲いていない桜をうたうのは決してめずらしくはない。例えば ―。

いつのまに散りはてぬらん桜ばな面影にのみいろを見せつつ  躬恒〈後撰132〉 

をしめども散りはてぬれば桜花いまはこづゑをながむばかりぞ 後鳥羽院〈新古今146〉

吉野山はなのふるさと跡たえてむなしき枝に春風ぞ吹く    良経 〈新古今147〉

 これらのうたの眼目はあくまでもなくなってしまった桜、面影の桜だ。一方、水原紫苑のこのうたでフォーカスされるのは、桜のなくなった‘現在の’森、眼前の景色である。季節は秋。‘風狂ふ’のに、花はねむっているので‘しづかなる’秋なのである。

 ところで、やはり桜のない情景をうたったたいへんに知られたうたが、実は新古今にもあった。

見わたせばはなももみぢもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮   定家〈新古今363〉

 これも秋のうたである。

 

 

 
94

 

かつて吾鯨でありし日のやうにろんろんと啼きて母を捨てたし

川野里子〈「太陽の壺H14〉

S34 -               

 鯨の生態はすべてはわかっていないらしいが、母鯨は母乳を与えながらしばらく子を守り育てるという。子鯨はいつ母の元を離れていくのだろうか。茫洋たる大海原に、よりどころなく旅立っていく。“ろんろん”と響きとどろく啼き声はその孤独と捨てるものの重さをみごとに言い表してしている。川野にはさらに次のようなうたも。

わが裡のしづかなる津波てんでんこおかあさんごめん手を離します 「ガラスの島」'18

 

 


95

 

生まれては死んでゆけ ばか 生まれては死に 死んでゆけ ばか

早坂類

 

 これは誰に対して言っているのか。理不尽な行為をしかけてきた相手に対して、というのがもっともあたりまえの解釈だろう。だが、それでは“生まれては”という句が不可解である。思うに、これは自己嫌悪のあまりの自らに対する罵倒ではないか。さらに深読みすれば、まさに死んでしまった愛する者(恋人、親族、友人、ペット?)に向かっての絶望のあまりの絶叫ともとれる。“生まれては死に”で一旦リズムが断絶する。あまりに激しく叫んだがために、ここで息が切れてしまったのだ。

 

 

96

 

疾風にみどりみだるれ若き日はやすらかに過ぐ思ひゐしより

大辻隆弘

 

 終句や三句を已然形で終わる例は少なくない。(係り結びの“こそ”が省略されたもの。“白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ”-牧水)だが、二句切れの已然形止めは珍しい。さしあたって思いつくのは次のうただろうか。

めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり「赤光」茂吉

 

 しかし、この“みどりみだるれ”も実にみごとに決まっている。連体止めにして“みどりみだるる”でも、“みどりみだれぬ”でも、字余りで“みどりみだれたり”でもいけない。已然形であるから、“みどりみだるれ(ば、ども)”のニュアンスを補って読むこともでき、この鮮やかな初句-第2句と、第3句以降の静かな追想へと絶妙に橋渡しするのは、やはりこの“みどりみだるれ”でなければならない。

 

 


97

 

さくらさくらさくら咲き初め咲き終りなにもなかったような公園

俵万智〈「サラダ記念日」S62〉

 S37 -                 

 桜が消えたあとの情景。93の水原紫苑のうたと同趣のようにも見えるが、そうではない。

 桜が咲きほこっていた時の公園、散り終わって跡形もない公園、それははたして同じ公園なのだろうか。さらに”さくらさくらさくら咲き初め咲き終り”という循環するようなフレーズから自ずと次のような思いに気付かされる。翌年、翌々年、桜が満開になる時、その公園もまた同じ公園なのだろうか…。ここでうたわれているのは、記憶の中の桜でも、桜が咲き終わった公園の情景でもなく、その不思議な断絶の気そのものなのだ。

 

 

 

98

 

春雷よ 「自分で脱ぐ」とふりかぶるシャツの内なる腕の十字

穂村弘〈「シンジケート」H2〉

S37 -                

 “腕の十字”は“かいなの~”だろうかそれとも“うでの~”だろうか。“かいな”なら終句は7音になって座りはいい。だがそれでよいか。穂村弘の妄想ワールド。大気の不安定から引き起こされる春雷が暗示するように、ふたりの関係はまだ危なっかしくおぼつかない。向かい合うふたり。意を決して彼が彼女に手を伸ばす。一歩後ずさって彼女がぴしゃりと言う。“いい、自分で脱ぐから”。さっさとTシャツをたくしあげる彼女。間抜けた中途半端な状態のまま突っ立つしかない彼。やはりここは“かいな~”では決まりすぎだ。“うでのじゅうじ”と尻切れトンボでなくてはなるまい。― しかし、なんだこれ、と思いながらもいつのまにか脳みそに貼りついてくるようなうたばかりではない、このような比較的‘まともな’うたも穂村は巧い。“シャツの内なる腕の十字”、なんて実ににくい表現だ。ほかに例えば次のようなうたも―。

抱き寄せる腕に背きて月光の中に丸まる水銀のごと       「シンジケート」
風の夜初めて火を見る猫の目の君がかぶりを振る十二月

 そしてなんだこれ、の、しかし忘れられないうた。

体温計くわえて窓に額つけ「ゆひら」とさわぐ雪のことかよ   「シンジケート」

「猫投げるくらいがなによ本気だして怒りゃハミガキしぼりきるわよ」

泳ぎながら小便たれるこの俺についてくるなよ星もおまえも

ハロー 夜。ハロー 静かな霜柱。ハロー カップヌードルの海老たち。

「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」H13

夢の中では、光ることと喋ることはおなじこと。お会いしましょう

 

 

 

99

 

廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て

東直子(「春原さんのリコーダー」'96)

S38 -                    

 桃を包んだ新聞紙に廃村の記事が載っている。傷みやすい桃と、水の底に沈められようとしているのだろうかその村とがシンクロする。不条理で抗いがたく凶暴な、しかし見えない力の前に、来て、といういたいけな一語が切ない。“ふれればにじみ/ゆくばかり 来て”という下の句の韻律もうつくしく、ほのかに官能的なニュアンスも漂ってくるようだ。
 上記のうたを収めた第一歌集につづく第二歌集には次のようなうたが。

 好きだった世界をみんな連れてゆくあなたのカヌー燃えるみずうみ (「青卵」'03)

  カヌーが燃えるのは「われ」の情念によってである、と水原紫苑は解釈したが、あまりに‘水原紫苑’的にすぎる。あなたがあっさりさらっていってしまったすべて、それはわたしのちからのまったく及ばぬままに勝手に炎上してしまう。手の届かないフィルムのなかの美しい一シーンのように。わたしはそれをただ見つめることしかできない。
 さらに次のようなうた。

陰毛のみ残した身体さらしたらもうなんでしょうなにもないです (角川雑誌『短歌』掲載 '03)

 不条理、というよりそのありよう自体がわけのわからない世界。そこにうまくコミットできず呆然とたちすくむ。泣くべきなのか、笑うべきなのか、いや、呆然とするべきなのかさえわからない。反応のしかたすらもわからないまま、ただ佇むしかない。世界とは実はだれにとってもそのようなものではないのか。カヌーはあちら側で勝手に燃えあがってしまうのだ。

雨が降りさうでねとても降りさうであたしぼんやりしやがんでゐたの (「青卵」'03)

 

 


100

 

最後だし「う」まできちんと発音するね ありがとう さようなら

ゆず (雑誌「ダ・ヴィンチ」'08)

                                                                                                                      H2 ?-

 総合雑誌「ダ・ヴィンチ」連載の「短歌ください」に投稿されたうた。撰者の穂村弘は、別のエッセイで別人のこのf手のうた(”たくさんのおんなのひとがいるなかで/わたしをみつけてくれてありがとう” 今橋愛)に対して“〈私〉の想いそのものであって…余りにも等身大の文体は…ほとんど棒立ちという印象を受ける”と書いている。同時にこれらのうたには“奇妙な切実さや緊迫感”があるとも。このうたをつくったゆずという人は当時18歳で、今も残っている本人のホームページによれば、この頃様々な場に短歌を投稿していたようだ。だがその熱も程なく冷めたらしく更新もされなくなっている。このうたは、付き合っていた彼氏と別れるにあたって、いつものような‘ありがと’‘さよなら’ではなく改めてきちんと挨拶するというのである。“発音する”という言い回しがいかにも素人くさい。だが、なるほどここには却って他では表現のしようのないリアリティがある。“最後だし”が図らずも(?)絶妙で、これが“最後だから”では重すぎてしまう。何年もの長い付き合いではなく、せいぜい半年程度だろうか。そしてそのようなはかない関係しか築けないでいる切なさをも、このうたは表しているように思う。

 この人のうたは「短歌ください」で何首か採られていて、次のような作品もある。

 「ほんとうは誰も愛していないのよ」ペコちゃんの目で舐めとるフォーク
 カタツムリ踏み潰すのに似ているね そんなところにキスをすること