幼年期

 

 小学校の低学年の頃だったか、サトウ製薬のサトちゃん人形を集めては、銀紙や布などで作った兜・鎧を着せて遊んでいた。

 それが今日につながる原体験だったのだろうか…。


1977年

 5週間のイタリア旅行の帰路、パリでフランス人形(SFBJ)を購入。

 以降、ビスクドールや市松人形を求め続けることになる。



1981年?

 それまで取り組んでいた黄金背景テンペラ画*だったが、シェル美術賞展入選(第25回)を最後に見切りをつける。人形をつくることをこころざすも暗中模索。

  * 中世キリスト教の祭壇画で金箔を用いて背景を鏡のように磨いたテンペラ画の技法。

 

 畏友松浦寿輝の仲介で四谷シモンを訪ね、一日長時間にわたり具体的かつ懇切丁寧な教えを受ける。

 当時、エコール・ド・シモンはすでに開校していたが、入学するという考えは浮かばなかった。

 まだ1体もつくっていないくせに、もう一人前の作家のつもりになっていて、カルチャーセンターに集うようなご婦人方と席を並べる気にならなかったのである。

 

 ちなみに、このとき持参した強化石膏かなにかで作ったヘッドを見て、シモンは“ハニワだね”と一言。

 それも褒められたと思い込むお目出たさだった。

 

 これを機に、シモン伝授の和紙貼りの球体関節人形つくりを開始。

 

              確かに、これはハニワだ。



人毛や義眼の入手先も教えてもらった。義眼は人間用のガラス製で、これを作っていた壺井義眼は既になく、現在はプラスチック製が使われるようになっているようだ。


1989年?

 人形つくり頓挫。

 7体目に取り掛かりながら、もう少し‘効率的’なやり方はないものか、という思いが頭を掠める。

 それがきっかけになったか、あるいは既にモチベーションを失っていたがために、そんな思いが浮かんだのか―。

 ある日突然、もう、つくれなくなっていることに気が付く。


2001年

 人形つくり再開。

 わたべりみ主宰の「Doll Rimi」に入会。

 ビスクドール制作のABCから‘企業秘密’に至るまでの技法を教授される。

 都合のいい日に通い、区切りがつかなければ夜7時過ぎまで居残る、という勝手が許されるのびやかさ。

 

 今日まで、この教室展に毎回参加させてもらっている。


               20周年第10回教室展会場風景('18.5/31~6/5)

2008年

 和裁を始める。

 人形の着物を自分で縫うため、日常的に着物を着、自ら縫っていた最後の世代であろう母の元に通って、和裁を習得することにする。

 

 素材は現代のものはいただけないので、基本的にアンティークを。

 なんといっても今のものとは色合いの深さが比べものにならない。

 大阪や京都の古着屋や骨董市を渉猟。ダンボール箱に詰めて宅配してもらったことも…。

 今や箪笥が8棹に…! もう、収納する余地がない!!

 

 でも、人形の着物・帯・帯揚げ・帯留めなどのコーディネートや柄の出し方をあれこれ考えているときがいちばん楽しいかも。


    縮緬・錦紗

    帯(織り)

      

  帯留用の目貫など


2016年

 本城光太郎主宰の「西荻人形倶楽部」に10か月間在籍。

 技法の引き出しを増やす目的で、短期間の入会を許可してもらう。

 

 子どものころ遭遇した‘天文少年’や‘昆虫少年’の伝で言えば、さしずめ‘人形少年’がそのまま大人になったかのような本城氏の佇まい。

 所狭しと様々な器具・道具がひしめいているものの、それなりのルールで整理されている模様。

 (入れ歯の石膏型を乾燥させるための歯科用ヒーターがあるかと思うと、座席の真後ろにはジュモー?が床に座っている…。)

 なるほどの手法、見たこともない道具・材料、山本福松の修復のこと等々―有意義な10か月だった。

 

 (しかし、ここの生徒はどうして美少女ばかりなのか?!?)


2023年

 Art Gallery Café 茶々華に、ビスクドール開始以降の人形15体を展示。

 約20年間の、これがほぼほぼすべて。こんなものかという思いと、こんなものだという思いと。


 (文中、敬称を略させていただきました。)